『ミュンヘン』

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私たちは常にねじれる。自分の位置が相手の位置になり、相手の位置が自分の位置になる。誰かの構造の中に押し込められながら、自らがその構造を包含する。そこに運動が生まれる。とどまっていることは決してない。あるとすれば、それは無知ゆえの盲目か、あるいは怠惰と弱さゆえの欺瞞でしかない。


アヴナーを追い続ける時に感じる不安定さは、その位置の不安定さにある。彼は常に揺れている。


最初は、無知ゆえに勇敢だった。盲目であるがゆえに、躊躇を知らなかった。むしろそれは、無頓着ですらあった。
盲目なままで進み続けることができなくなったときは、迷いを捨てることによって乗り越える。迷いは弱さだからだ。自分が何者であるのかを知ったうえで、ただの「部品」となることを自ら選ぶ。そこにもはや意志はなく、彼は大いなる父(パパ・神)の目的のために従順に働く戦闘の天使となる。
しかし人間である彼が裁く者となりきることは所詮不可能であり、最後に彼は、再び迷い始める。


最終的に祖国も、仲間も、信念すらも失った彼に残されるのは、「愛」だった。それは家族であり、唯一の良心として彼を支え続けた妻だ。そうしてただのアヴナーに戻ったとき、彼は酷く弱々しく、哀れに見えるが、同時に、ようやく安らいだかのようにも見えた。


けれどその背後、遠景にはあの建物が待ち構えている。


答えが見えたとき、その答えは再び振り出しへすり替わる。無形の「愛」は形を持ち、アヴナーはそれを手にすることができたけれど、その形はいつか崩れる。アヴナーは決して終着点へ到達したわけではない。彼は、新たな振り出しの前に立たされただけなのだ。


私たちはいつも置き換えられる。自分たちの望むと望まざるとに関わらず。私たちはいつも何かを信じる。それがいつか壊れるということを信じたくないから、その永遠を信じる。その真理を信じる。 遙か彼方の永遠を見ようとしたとき、私たちはその「ために」生きてしまう。私たちは、すでに「生きて」しまっているのに。


ミュンヘン』を観終えたときの恐ろしさは、何かを信じようとすることをやめることではなく、それをやめたと思いこむことができる、自分を欺瞞で盲目にすることができること、その可能性がわたしたちにあるということ、に気がつかされてしまう、その恐ろしさだ。


アヴナーと同時的に映画を生きてきた私たちは、あの建物の登場によって不意に現在の私たち自身へと引き戻される。映画の終了と共に自然と行われるはずだったそれは、無理矢理に、人工的な形で、実行されるのだ。過去にひとり取り残されたアヴナーを最後の画面に眺めながら、それは決して遠くの出来事ではなく、私たちの、この生活にダイレクトに繋がってくる。もはや虚構ではない。今や、アヴナーの位置に立たされ、あの世界を生きるのは私たち自身となった。比喩ではなく、映画は決して終わってはいないのだ。


私たちは自分をだまさずにはいられない。私たちは、むしろ、自分をだまし続けることによって生きているのかもしれない。けれど盲目であることは、信じ続けることは、互いのねじれを解きほぐすよりはむしろ、互いをむしばみ合ってしまう。知ることがたとえ不幸であっても、私たちは知ることを止めることはできない。