本能的に笑う

錯視と小林賢太郎の笑いの類似について考えていて(暇人)思いついたのですが。
つーかいい加減こういう話も言い尽くされた感じなので偉そうに書くことじゃないとも思うわけですが。
すいません。分解するのが大好きなもので(その割にいつも分解しきれない)。


笑いという行為が、怯え、から派生しているということは生物学的に明らかなことらしいのですけれども。
適当な資料が手元にないのでうろおぼえのまま書きます。


ふつーに生きていると、真面目な場面や真剣な場面には、常に恐ろしさ、切実さ、逃げ場のなさがつきまとっていて、私たちはそのような場面に出くわしたとき、たいていそこから一歩引こうとします。実際に後ずさったり、「これは現実じゃないんだ」と考えたりする。どちらにしてもその場面を一線を画して見て、自分自身を(自分自身の作り出した)偽りの情景の中に置き去りにし、外から眺めようとしてしまう。


笑う、という行為もこれにそっくりだと思うわけです。


つまり笑ってしまうという行為は、自分の直面する場面と同じレベルのベタな空間に居てはできず、メタな空間に瞬間的に「引く」ことによって喚起されている、ということ。
あるいは、引いていく行為それ自体が「笑う」ことであると言ってもいい。笑うことで、自分自身を、直面している現実から引き離していくわけです。
たとえば「笑いとばす」という言葉が暗に示すように、私たちは一瞬その場面に圧倒されるわけです。あ、逃げられないと観念する。そうして一歩後ずさりながら、改めてその得体の知れない場面と向かい合ってみて(いわば対象化してみて)、初めて、笑い「とばす」ことができる。


それで、もっと言うと、こういうことができるのは多分、人間だけだと思うのです。
確かに、「怯え」という反応から「笑い」が派生したのは事実なのかもしれないですが、そこへ単なる後じさりではない、「引き」を持ち込むことができているのは、人間だけなんじゃないか。記号(言語)を操作することのできる故の恩恵(帰結)ではないのか。


もしそれが正しいんだとしたら、笑うっていう行為は”本能”であり、同時に、ひどく”人間的”なものでもあるということになります。


で、まぁ小林賢太郎の笑いって、ぐいっと引かないと判らない笑いのわりに、脇腹をくすぐられているような、反射的な面白さっていうのがあって、そこが魅力かなと。錯視のように、避けがたい、けれど論理的な。それは多分、彼の身体能力と、言葉選び(動作選び)の巧みさによるものなのでしょう。見る力、構成する力、再現する力。
さらに、笑うという人間的行為に本質的な「引き」よりももっとメタなレベルに視点が設定されていることもあって、にもかかわらず難解ではないので(つまりちゃんとネタバレさせるので)、あーくそこういうの自分だって思いつけたじゃん的な、いわばコロンブスの卵的な、あるいはなんかうまく騙されちゃった推理小説的な、ちょっと自虐的な可笑しさと、悔しさがこみあげてくるのではないかと。


メモってわりに長くなりました。野暮天のひとりごとでした。