ぽつねんとたたずむ


新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
というわけで無事に生き延びて行きたいと思います。


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さて年末に、今更ラーメンズのもじゃもじゃじゃない方のソロコントを鑑賞してきますた。
初、ラーメンズ(の片割れ)。
あーーー。えーーー。
悔しいけど面白かった!でも憎い!小賢しい小林賢太郎が憎い!でも好き!憎いけど好き!
そんな相反する気持ちを抱きつつ感想など書いてみます。


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舞台は白と黒というシンプルな構成、少し時代がかったフォーマルな服装。
凝った装置はなく、生身の身体と、言葉だけが彼の武器です。
驚いたのは、その身体能力の高さ。半端な役者よりも良い声、良い身体、良い動き。
後で聞いたところによると、彼は手品とパントマイムのセミプロだそうですねぇ。納得。


その能力を遺憾なく発揮していたのが、「異種混合(GAME?)」。
多種多様なスポーツの、象徴的な場面だけを切り取りつぎはぎしたもので、ほぼ完全なパントマイムなのですが。
これが素晴らしかった。私は漫才やコントというのは言葉や暴力的な動作で無理矢理笑わせようとしているところがあってあまり面白いと思えずにいたのだけれど、これは文句なし。
動作という記号のトリックは、言葉によるレトリックよりもシンプルで力強いのです。


その方法はじつに単純。
ある特定のスポーツという文脈の中にあっては違和感のない、けれどその文脈から切り離された途端に意味不明になる動作を丁寧に繋げていって、悪夢のようなスポーツを作り上げていくのだけれど、そのうち、ふと電光掲示板を見上げるような、なんでもない動作までも、脈絡のない連鎖によって可笑しくなってしまう。
彼のコントはこれが初めてだったし、笑いのなんたるかを私はよく知らないけれど、このコントにはそのエッセンスが、エッセンスだけが、あるように思いました。


たとえば完璧な形式。形式は完璧すぎるほど良い。その繰り返しと、繰り返すうちに少しずつずれていく動き。形式からはみ出るおおげさな、あるいはそっけない動作、表情。それらの作り出す意外性。全体を貫く「真剣さ」。マジメさは、フマジメさよりも、喜劇に転じる可能性を孕んでいるようでした。そして脈絡。笑いというのは、随分脈絡に依存しているのだな、と思います。脈絡の不自然さ、「オカシサ」は、「可笑しさ」に常に繋がっているのですね。


その後も連綿と続けられていく小林賢太郎のコント。あれはコントなんでしょうか。よく判らなかった。
アナグラム、ハンドマイム、マグネット。
でもどれにも笑いが含まれていて、その笑いはねらっているのが丸見えなのに、やっぱりおかしい。まるで錯覚を錯覚と知りながら避けることができないように、彼の笑いは避けることができないのですよね。判っていても可笑しい。あーここで笑わされちゃうんだなって思いながら笑っちゃう。実に悔しい。あーーーー悔しい。


ですから彼のコントは、研究発表のような具合なのですね。この要素とこの要素をもってきたらおかしい。おかしいに決まっている。じゃあこれはどうか。そうして、人間の避けがたい笑いの契機を、彼は探求しているように思いました。「そんな風に斜に構えてたって、ぜーーーったい笑っちゃうんだから。ほら、笑ったぁ」と言われているようで、あーーーーむかつく。ほんとむかつく。


彼の発想は、発想だけなら持ってる人たちが他にもいそうなのですが、それを、他者に対して、現出させて見せることができるかどうかという点において、その能力は卓越していました。基本的な身体能力の高さ、笑いの知識、技術。あープロなんだなぁって思います。ぼやぼや考えたり、思いついたりするだけじゃやっぱだめ。形にして、他者に示してみせて、否応なしに納得させられないと。


他には、隙のなさが際だっていましたね。詰めて詰めてキッチリ収める。アクシデントを好むヒトには物足りないかもしれないけれど、私はその構成力にひたすら感心していました。ここまでやってくれるとお笑いというか、もはや一つの物語、劇ですよ。それも嫌みなくらい完璧で、ロマンチックな。連れて行ってくれたA嬢が言っていた、彼はサービス精神旺盛なのだという言葉は、ぴったりですね。笑わせっぱなしじゃない。ちゃんと収まるようにふろしきに包んで、観客が各々持って帰れるようにしてくれる。実に丁寧です。


そんなわけで。
ロマンチストでむっつりスケベ、サディスティックでプライドの高い完璧主義者。
けれど内心はビビリかもしれない。
小林賢太郎というのはそういうヒトなんだなぁと思いましたです。


A嬢、連れていってくれてほんとにありがとう!


ラーメンズ>>http://rahmens.net/