死ぬ

死ぬことに対する圧倒的な恐怖は、幼い頃から断続的に訪れる感覚のうちの一つで、私はその感覚が嫌いではない。
確かに恐ろしいのだが、生きているということを鮮明に意識させてくれるという意味では、悪くないのではないかと思う。


死ぬことへの恐怖には様々な言われ方があるが、一番印象に残っているのは『サクリファイス』の中で博士が述べる台詞、死ぬことに対する恐怖とは、その痛みに対してのものではなく、自分自身の存在が消え去ってしまうということへの恐怖なのだ、というような意味の台詞だ。私はこの台詞を聞いたとき、ああ、そうかもしれないと思った。確かに痛いのは嫌だが、死ぬのが嫌だと言うとき、私は痛いのが嫌だと言っているわけではない。


しかし、今はこれは嘘だろうと思う。それは単に自分自身が消え去ることへの恐怖であって、死の恐怖とは異なる。存在が消え去る=死と考えるのなら妥当だろうが、私にとって死の恐怖とはまた別の感覚である。


死の恐怖は、未知の事柄への恐怖である。絶対に、誰にも例外なく訪れる出来事にもかかわらず、誰1人としてそれがどのようなことなのかを知らない。「体験してみる」ということが不可能な出来事。未知でありながら逃れようのない結末、逃れようのない結末は結末であることを自身で認識することは不可能で、だからこそ、怖いのだ。


またその恐怖は、逃げ場のない閉塞感に似ている。もうどこにも逃げられない。このまま、この生を続けていくしかない。続けていって死ぬしかない。道はたった一つしかない。それ以外の道など、この生を獲得したときからありはしない。


死を想像するとき、想像の領域と現在生きている私自身とが連続する。
私はミステリーの結末を自分自身が死なずに経験することができるが、自分自身の死は、自分が死ななければ決して経験できない(それは経験とすら呼べないかもしれない)。そこに、「想像する」ことに由来する何らかの虚構性が一瞬にしてリアルな現実の私へと転じていく瞬間があり、空想は空想ではなく”現に私に起こること”として認識される。そうして、私は空想の中での死が私自身の死へと直結しうるという事態に直面し、絶望的なまでの恐怖を感じることになる。空想の中でさえ手にすることができない、「その先」が真っ暗でまったくの断絶としてしか感じ取れないことへの、圧倒的な恐怖である。そしてその恐怖は逃げ場がないことによってますます加速する。