思想と動くもの

思想と動くもの (岩波文庫)

岩波文庫、1998年、860円。ベルクソン編集による最後の論文集。
 で、今はどこを読んでいるかというと、一番最初にある、緒論、第一部。
 ベルクソンにとって時間(持続)や流れ(運動)がいかに捉えがたいものであるか、を繰り返し繰り返し述べるところです。


 今日おもしろかったのは、ベルクソンが一生懸命科学や分析や、表現では捉えられない運動、時間ということを主張しているのにもかかわらず、彼の想定したような運動は、実際にはあり得ないのだというみなさんの結論。
 つまり、ベルクソンが、言葉やグラフや写真では捉えられない運動を言おうとすればするほど、それは実際のわたしたちの運動から遠ざかってしまう。説明しようとすればするほど、実際の姿は逃げてしまう。


 最終的にベルクソンは、それを捉えるために「直感」ということを想定するのだけど、ここまで読んでみたところ、言語に落とせないものを言語で言うことの、ある限界というか、もどかしさ、むずかしさを感じずにはいられない。点や座標を用いずに、運動を表現すること(捉えること)はできるんだろうか。


 それから、瞬間写真(スナップショット)の比喩。運動を制止画像として捉える写真というものを、ベルクソンは理性(科学)が運動を捉える仕方の比喩として用いる。けれど、映画のような静止画像の連続を、わたしたちは運動として見ているのではないか。だとしたら、運動は錯覚も含めてのことなのだろうか。それとも、そもそも運動は錯覚なんだろうか。


 という話を聞いていたら、ベンヤミンの「写真小史」や「複製技術時代の芸術作品」なんかを思い出してしまいました。