「隠れた自然の幾何学」

『素材の美学』p128-149、ヘルツォーク&ド・ムーロン「隠れた自然の幾何学

初出は、Birkhouserより97年刊、Gerhart Mack "HERZOG & DE MEURON, 1989-1991"。
ちょっと、訳がこなれてないような感もあるけれど、そこは英文併記の強み。いざとなったら原文にあたれるのでさほど問題はない。短いテキストは積極的にこういう形にするべきだと思うんだけど。勉強になるし。
以下章ごとに。
 
基本的に、H&dMが建築を生み出す際に生まれる思考の断片の寄せ集め。従って論文ではなくエッセイという立場をとる。

  1. Tradition and the Image of Tradition (伝統、および伝統のイメージ)
  2. Presentation (表現)
  3. The Reality (現実)
  4. The Hidden Geometry of Nature (隠れた自然の幾何学)

 
 
1. Tradition and the Image of Tradition (伝統、および伝統のイメージ)
「私は建築家です(I am an architect.)」という宣言から始まるこの章においてH&dMが考えるのは、現代において「伝統」とは何を指すかということ。
伝統は現代においては失われている。それは職人時代の伝統だけではなく、近代における「産業的美学と建築的美学の共存共栄」すなわちモダニズムという「近代の伝統」の終焉も指す。H&dMはこの現代を指して

建築の歴史の中で現代ほど、建築家のための方向性が甚だしく喪失したことはなく、これ程酷い建物が建てられたことはありませんでした

と言うのだが、一方で

これほどまで多様な可能性や方向性にあふれた時代は、かつてなかったと言えます。私たちはその中を、様式の問題を気にせずに進んでいくことができるのです

とも言い、建築家という立場にとっての現代を両義的に捉える構えを見せている。
その後突然

また事実として、建築がこれほどまで芸術に近づき、そこから離れたこともありませんでした。建築とは認識(perception)なのであり、進化の必要がない探求なのです

と述べるのだが、「as a matter of fact」は「事実として」よりも「実際」という訳語に変えた方が文章全体の流れが良いように思う。そうすると、前後の文が脈絡を持ってきて「進化の必要がない探求」という謎の文句も、現代における(H&dMの)探求の方法なのだろう、ということが分かる。

以上のような考え方のために、彼らは2つの「伝統」を定義する。1つは、かつての世界において「モノや関係性が存在するための、自我確立のための母胎」=倫理的規範としての伝統。もう1つは「統一された文化」の理想=ユートピアとしての伝統。これは前述の「職人時代の伝統」と「近代の伝統」とに対応していると思われ、H&dMはこの両者が共に失われた時代として現代を捉えていることも既に述べた。では、現代において伝統はどう扱われているのか。

H&dMは、現代の建築が伝統に則っていないにもかかわらず「伝統をほのめかしている」と述べる。具体的にはポストモダンを出し、この「現代文化」は伝統の本来の形式ではなく「見た目」のみを継承しているとする。
つまり、建築は何もないところから生まれはしないが、しかし過去と現代を繋ぐ伝統が存在しない今は、ポストモダンのように形態の引用によって「歴史との関連」=伝統をでっちあげようとも、「せいぜい表面的な印象を私たちの目に与えるもの」でしかない。
彼らは従って、

心象的類推作用を利用し、それらを解析し建築的実在へと再構成すること

を自らの仕事の中心に据える。
この解析と再構成、つまり部分を取り出し「集積(assemblage)」するということが、H&dMにとって失われた伝統を「見た目」だけの再現ではない、プロセスそのものの再現たらしめる中心的概念だった。(「集積」=社会的・機能的・空間的・構築的全体は、「分割(division)」=機能に従った分離とは反対のプロセスである。)
 

2. Presentation (表現)
H&dMはこの章では、「建築の表現に関する思考=建築そのものに関する思考」とする立場に立つ。

つまりある建築の本質は、そこに絵として表現された建築物に示されていると言うよりも、その表現自体の在り方に示されているものだと言うことです。

To say it in another way, each architect's presentation communicates insight into architecture not so much through the images presented of this architecture, but through the presentation itself;

結果、H&dMは設計競技の際に提出される白い模型や、写実的な透視図に疑問を呈する。
白い模型は、ル・コルビュジェの『建築をめざして』にならって建築を「幾何学とボリューム」へと還元することであり、情報の省略によってその建築の「知っていること(knowlege)」を表している。
写実的な透視図は、逆に情報の過剰によって同じ地点に達する。
H&dMが「写実的な(natularistic)」透視図を「欺瞞的」であると考える。なぜなら、そこに捉えられているのは「雰囲気」なのであり、存在しない現実の「幻想」にすぎない。それはつまり、

透視図(写実的あるいは幻想的な、手描きであれコンピュータ・グラフィクスであれ)によって、「建築」、つまり建築の実在全体を再現しつくすことは不可能だからです。

また、透視図は別の弊害をももたらす。写実的な透視図によって強烈に喚起されたイメージは、実際の建築をも規定しかねない制限ともなりうるし、さらには作者の恣意的選択というバイアスがかかってしまうために、「作者の意図した見方や作者が選んだ展望(パースペクティヴ)しか得ることができません。」
建築表現を考えることがイコール建築そのものを考えることである、という彼らの言い方には、建築表現が即建築ではないという考え方が隠されていたのである。
章の最後に少し長くなるが、本文を引用しておく。

建築表現の正確さは、建築物の外見の表面的な写実性を高めることによって得られるものではありません。表現の正確さは、むしろその建築表現以外のイメージを思い起こさせ、可視的なものと不可視的なものの両方を喚起する表現方法によってのみ達成されます。このような表現こそ、「建築それ自体の持つ構造」から編み出された表現なのであり、建築物そのものが敷地ごとに様々な形を切り取るように、計画ごとに様々に有り得る表現なのです。

 
 
3. The Reality (現実)
H&dMの「建築の実在(The reality of architecture)」は興味深い。まずは冒頭の文を引用してみる。

建築の実在とは、建てられた建築のことではありません。建築は、建てられている建てられていないという次元を越えて、それ自身の実在を創造するものです。それは、絵画や彫刻の自律した実在性と同等とみなすことができます。

ここには、以前取り上げた南泰裕や、柄谷行人の言う「純粋化」という志向が見られる。もっと遡るなら、それはミニマリズムの態度と通じるところがあるだろう。ただし、彼らの「実在」は実際の建物、物質、素材を指してはいない。もう少し続けて引用してみよう。

たしかに我々は建築物の物質的側面を好みますが、それも「建築作品としての全体性」と関連する限りにおいてです。我々が好むのは、建築の精神的な特性、精神的な価値なのです。

言いたいことは分かるような気がする。しかし「建築の精神的な特性」とはどういうことだろうか。
ここからは私の解釈になるが、物質に対して精神という言葉を用いたのは、建築に対して一種の形而上学を用いているからであろう。H&dMは建築の「存在の本質」として、素材や物質を想定していない。しかしまた、実用ということも本質とは考えない。そこで、「精神」という言い方が現れるのだろう。それは一種の理想的なモノである。
しかし、H&dMは決して形而上的な議論へ建築を引き上げよう、とは考えていないようだ。彼らが精神的側面を建築に対して見出すのは、「政治的必要性」からだ、とはっきりと述べている。そしてまた、「現実を感じ、知的に対峙するというコンテクスト」を重視する、と述べている点からもそれは伺われるであろう。
つまり、精神的な側面を建築に見出す、という姿勢そのものが、H&dMの戦略なのである。そしてそれは、「実用一点張りの日用品や、在り来たりな現代建築物」への対抗手段でもあるのではないだろうか。それは彼らの

実際、我々が建築計画や建築作品に興味を引かれるのは、それが現実を認識し、対峙するための道具となるからに他なりません。

という言葉からも窺えるように思われるのである。
 
 
4. The Hidden Geometry of Nature (隠れた自然の幾何学)
隠された自然の幾何学とは何か。それは即ち自然の精神的原理であり、「システム」の複雑性である。
現代において、様々な産業製品は、「合成集合体」であり、認識することも還元することも困難な素材によって成り立っている。H&dMは、そうした合成集合体というものは、素材があまりに多様であるために、一体何によって出来上がっているのか認識できない、と言う。
(余談だが、私は多様であるために認識が困難なのではなく、単純に、各々の素材が何であるのかを知らないから認識できないのだろう、と思う。部分が何で出来ているのかを知るには、あまりに多様な素材が溢れている、という意味ではなら、H&dMの主張は理解できるのだけど。)
そうした合成体は、再び自然の循環の中へ戻すことができない。つまりもはや使い道のない「スクラップ」である。
スクラップは美的でもなければ、有用でもない。むしろ、それは人間にとって害ですらある(産業廃棄物など)。
こうしたことからH&dMは、

つまりこれらの美学的凝集や集成体は、私の頭の中において分解されないように、現代文化が擁する廃品置き場や廃品倉庫においても分解されないということです。そういうわけで、「実際に計測可能な環境汚染」と「身体的不快さを引き起こす、審美的感覚」の間には何らかの関係があると思うのです。

と述べるに至るのである。

混ぜ合わせられ、一個の集成体となった製品、もしくは建築、もしくは社会といったものを見るときに、H&dMはあるシステムが必要となると考える。そして、それが冒頭にあげた「隠れた自然の幾何学」というわけだ。さらに、彼らはその思考のモデルとして建築を捉え直そうとしている。
しかし、H&dMはこれ以上、この考え方に理論を与えることをしない。この後、彼らは自分たちの建てたアパートの解説をし、この章を終える。
 
 
<オマケ>
私にとって、上記のことは非常に興味深い。何故なら、彼らの思考形態の核心に迫ろうとしたところで、ふいっと避けられてしまったような印象を受けるからだ。結局、彼ら自身の方法は何も語られていない。語られたのは、すでに私たちにも見ることのできる部分でしかないように思われてならないのだ。
また、全体を通して彼らの方法は、非常に戦略的である。彼らは、自分たちをどこまで出せば一番効果的に相手に言いたいことが伝わるのか、を熟知している。言ってしまえば理詰めである。けれども、恐らく本心ではもっとフワフワとした愚にも付かないことを考えているはずである。ただ、それを言葉に出せば途端に陳腐になる、ということを知っているから言わないだけなのだろう。
実際、自分の建築のどこがどのように素晴らしいか感情的に語った言葉というのは、聞くに堪えない。彼らは自らの思いは胸の内に秘めながら、着実に伝わる部分を的確に明らかにしていくことによって、建築を1つの道具とすることに成功しているように見えるのである。