いしよ


すれ違いざまにする挨拶さえしたことのない人の遺書をみかけて、この人が私にしてくれたことを思い出し、それが彼の行った最後のことだったらと思い、それは完全な偶然なのだが、にもかかわらず、私がここに記述することで何らかのまとまりを得るのだと思い、夢を語らないのは夢が本当になるからだったか、ならないからだったか忘れてしまったけれど、ともあれ言葉が形に出来るもののことを考えている。彼はただ旅行に出る前に遺書を書いた方が良いという提案に従って遺書を書いたのであり、それゆえ死ぬつもりの遺書ではないにしろ、死んだ後のことを考えて書かれた文章というのは奇妙な居心地の悪さがある。普段忘れていること、私たちは死ぬということ、あるいは死んだということ、をただ言葉の羅列として受け取るしかないという理不尽さ、あるいは必要ないかもしれないのにそれを想起させられたということへの憤りのようなものかもしれない。私は彼のことを知らないが、彼が死んだことがわかったら、きっと泣くんだろう。