霧と磁石


こんなときでも私たちは自分のことばかり考えている。こんなときだから、余計に。他人のことなんてかまっていられない。一日でも長く愛する人のところで過ごし、一日でも長く一緒にいたいと思う。その感情が長く続くといいねと私は思う。一年後にもその感情を忘れずにいられたら素敵だね。五年後もその感情を思い出せたら褒めてあげるし、十年経ってもまだその人を同じように愛し続けられるなら奇跡だ。
ときには奇跡を起こせる人たちがいたとして、たいていは難しい。そしてそのことも、強い強い情動の前では忘れられてしまう。他人に助言したことも、他人から助言されたことも、理性的に思考したことも、普段自分で言い続けていることも、強い強い情動の前ではぜんぶなかったことにされて、気付けば感情の濃い霧だけがあたりを取り巻いている。
私たちは霧の中で翻弄される。そしてその翻弄が心地よくなる。情動は麻薬のように甘美だし、たとえ痛かったり苦しかったりしても、やっぱりその翻弄に身を任せるのは気持ち良い。なぜ?考えなくていいから。ただおびえたり、喜んだり、痛がったり、苦しいと言うだけでいい。霧の中で、私たちはいつでも盲目になれる。
生きることは大変だ。とくにずっと理性的に生きることは、ほとんど戦いみたいなものだ。私たちはたぶん、折を見てその戦いを放棄したいと思っている。放棄して、たとえばただ愛するひとと一緒にいたいと思っている。時にはただ眠ってしまいたいと、ただ好きにされたいと、ただ流されたいと、たとえばお人形みたいに。
でもきっと、その情動もやがて忘れる。霧が晴れたときに、後悔しなければいいねと思う。その手の中に、磁石が握られているといいねと私は思う。