こどもの話

去年の年末くらいに気付いたが、どうやら私はこどもが好きである。柔らかいし、あったかいし、良い匂いがするし、それになにより興味深い。さっきまで笑っていたと思ったら、もう怒っている。ぐずっていたと思ったら、次の瞬間には他の子にまじってきゃっきゃしている。展開がめまぐるしい。彼らを見ていると、私はずいぶん間延びした時間の流れの中にいるのだなぁと感じる。次の行動に移るのも、よっこらせである。
結婚したと思ったら、そんな話をするような人間じゃなかった母が「孫を作れ」と言う。正直驚いた。そして結婚するとはそういう帰結を少なからずはらむのかと実感した。たかが結婚、されど結婚である。そして、正直ついでに言えば、そういう世間的慣習に逆らいたい気持ちもあった。それに、まだ自分でやりたいことがあるような気がしていたのだ。
でも実際、それはこどもがいてはできないようなことだったろうか。つと自問してみるに、どうもそんなに大層なものでもない。そしてなにより、私はいまこどもと遊ぶのが楽しい。こちらの日本語補習校で幼稚部のお手伝いを始めて、こどもに振り回されるのがこんなに楽しいのかと驚いた。他人の子であるから、無責任に可愛がれるというのは事実である。しかし、我が子ならば、責任もあれど、それにもまして成長が楽しみなのではなかろうか、と思わないでもない。
だが。そこではたと思うのだ。こどもといえど、ひとである。私は彼や彼女になにをしてやれるだろう。彼や彼女がこの世に生を受けたときに、どれほどの恵みを与えられるだろう。簡単にぽいぽいと産んでしまっていいものでもなかろう。実際、自分の腹を痛めて産むとなれば、ためらいのほうが大きい。
それでも、こどもは可愛い。やがて可愛くない大人になるのだとしても、その存在は、それだけで言祝ぐべきものだ。生命というのは、存在することそのものを、祝福されるべきものなのである。どのような人も、決して、その存在を否定されてはならない。私は、たとえなぜ生きてしまったのかという絶望の縁にたどり着いたとしても、その存在を悔いてはならないと思う。あることは、それ自体が善だ。
私は人生において、だいたいやりたいことはやってしまった。だとすれば、自分の生を子というものにつなげる役割を、そろそろ負ってもいい頃なのかもしれない、と思う。生というのは続くかぎり続くものだから、たとえ目的などなくても生きることはできる。もし可能ならば、私は私の生を、子というものに少しの間捧げてみたいと思うのだ。やがてひとりのひととなり、生きて行くことができるようになるまで、少しの間、そのひとの生きる様を、そばで眺めてみたいと思うのだ。きっと数年前の私が見たら、驚くだろう。こんなふうに考えることができる日が来るとは、実はいまだに半信半疑なのであるからして。