一日の始まりと終わりに。


目が覚めて2時間の間に、あまりうれしくないことが5つあった。その後、3時間の間にうれしいことが4つあった。数で言えばうれしくないことのほうが多いが、今日の終わりに思うのは、まぁ悪くない一日だったということだ。
ショックが大きくて泣きたい気持ちになると、他のことなど考える気もしなくなる。気分転換でさえ行動を起こすのが億劫で、ただ打ちひしがれてうつむくだけになってしまう。甘えだと言うひともいる。でも、人間の意志の力なんて、きっととても弱いものだ。君は意志が弱いのだ、と誰かを非難してみたところで、余計に落ち込ませるだけで実りはない。
きっかけはささいなことかもしれない。私は今日、他人にすがった。どうでもいい話をして、最悪だった気分を、少しだけ引き上げて貰った。それでどうにかメールを書くことくらいはできるようになった。そのあと、偶然ではあったがうれしいことが続いて、その頃にはほとんど、うれしくなかった出来事のつらさを忘れていた。言い換えれば、その程度のことで動けないくらい落ち込んでいたのだ。
ちいさなほころびや躊躇や停滞を、本来与えられるべき大きさよりも大きくとらえすぎてしまうときは、迷わず他人や外部環境など、自分ではないものに頼る。私にとって、仕事はそういうもののひとつだった。自分の考えの中に拘泥しそうになるたびに、職場へ強制的に行くことで逃れた。いまはきっとパートナーや友人たちがその役目をはたしてくれているのだと思う。ありがたいことだ。
30年ほど生きてみると、良いことや悪いことは次々に、めまぐるしく起こるのだと気付くし、それよりもずっと、なにも起こらない瞬間のほうが多いことにも気付く。ひとつひとつを喜んでみたり悲しんでみたりするのもまた一興ではあるけれど、私はなんだか、最近ひどく諦めてしまったような気がする。良い意味で(この文句をつけていったいどこまでひどい評価を反転できるのかと試した知人がいる。けっこうひどい評価でも案外良い具合になってしまうので面白いがそれは別の話だ)。
私はすべてフラットになる。フラットな小道をふらふら千鳥に歩く、のもまた一興、といったところ、だろうか。