外へ出る


土曜の夜あたりから心身ともに調子が悪い。集中していたことがひとつなくなってしまって、虚脱状態なのだと昨晩あたりに気付いた。
昨日、すなわち日曜は一日何もできなかった。日曜の朝の時点ではまだ風邪だと思っていたので、一日中寝ていたのだ。ところが寝ても寝ても一向によくならない。眠気は次々やってくるし、眠れば胃がもたれ気持ち悪いし、横になりすぎて腰も痛い。夜起き上がってPCに向ってみると、どうも風邪ではないのではないかという気がしてきた。その時はwinter depressionか生理前症候群かなにかだろうと思ってみたが、しっくりこない。最終的に、おそらく燃え尽き症候群的なものなのだろうという結論に至った。


基本的に、私は他人に関わりたくない。面倒なことが多いからだ。自分の意図していなかったことを言われることも多いし、結局他人は私の言うことなど必要としていないと感じることもある。だから、極力、他人と深いかかわりを持つことを避けている。
ただ、もちろん例外がいくつかあって、ひとつは議論の相手として必要な人。私にとって何かを発言し、それに対して見解を返してくれる相手はとても大切なのだ。
もうひとつは、相手のほうが積極的に関わってくる場合。これはとてもうれしいことだし、同時に困ることもある。でも、やっぱり誰かに必要とされるのはうれしい。だから、困惑も少々混じりつつ、こういう人とも付き合いが続く。
最後に、自分がどうしても関わりたいと感じる場合。これがなかなかやっかいで、基本的にこのタイプの相手は自分の恋人である場合が多い。ただ、そうじゃない相手もおり、それは同性であったり異性であったりするのだけれど、いつも最終的に距離がとれなくなって崩壊してしまう。たいてい、私が手を離して見限ってしまうのだ。
今回、もしかすると唯一例外と呼べるかもしれないほど、私は先日話題にあげた友人に関わり続けた。最後の方は半ば意地になっていたところもあるかもしれない。それでも、絶対に関わることをやめたくはなかったのだ。それでこの関係がだめになるならなればいいと思っていた。それでも私は、彼に関して諦めたくはなかった。


というわけで、そういう関わり方をし、ある決着をみた後で、ふと日常に戻ってきてみると、あまりに平穏すぎて、どうしたらいいのだかわからなくなってしまった。日々のなにげなさをありがたく思いながら、その平坦さにまごついていた。
今朝もまた、起き上がれずベッドの中でまごまごしている間に、けれど、ようやく現実に戻ってきた感覚があった。脳の中の妄想世界ではなく、目の前に存在するものとしての現実に戻った。私は自分の手を見て、体を見、そして少し声を出してみた。「戻ってきた」と言ってみた。またさらに、現実が近付いた気がした。
私にとって現実とはなにか、というのは難しい。でも、必ずそこへ戻ることができる方法が一つだけある。私の生まれた土地で吹く、風の音を聞くことだ。山をわたってくる風の轟々という音を聞くことで、私は自分自身を一気に現実の元へ引きずり下ろすことができる。そして今朝、私は確かにその音を聞いた。目が覚めて、しんとした部屋の中で、私の耳の奥では確かにその音が鳴っていたのだ。
こういうときは、なるべく何も考えない。考えず、欲求するままに行動し、降臨した現実をたたみかけるように引きずり込むのだ。目下の経済的、社会的要請はすべて無視する。ただ、必要と思うことだけをする。というわけで、晴れて天気もよかったので、裏山の城へ登ることにした。寒かったが、凍えるほどではなかった。城の頂上は最後の夕日で明るく、すでに暗く沈んでいる街並みを見ながら、私は自分が今いる場所について考えていた。
今ここにいることに意味はない。私は偶然の積み重ねでここにいる。でも、ここにいることで要請されるさまざなま要素がある。私がここで生きるということは、その要請を満たして行くことを含んでいる。ならば、迷うことはない。なすべきことをなせばよろしい。なるほど、その通りだ。
城からの帰り道で、ずいぶん明るい気持ちになっているのに気付いた。私は日々の退屈さにとらわれていたようで、その実、次の行動の目的を探していた。けれど、目的がそもそもなく、自分自身の生き方を満たすことによって生きているのなら、必要なことをまずはなすべきであり、その上に折り重なっていく日々の喜びを享受すればいいのだ。
帰宅してすぐにシンクに溜まった洗い物を片付け、パンを焼き、コーヒーをいれてPCに向った頃には、すでに退屈の影は部屋の隅の方で大人しくたたずんでいるばかりだった。ときどき暴れるけれど、退屈だって悪い奴ではないのだ。ただすこし、さびしがりがすぎるだけで。こちらに余力が戻ってくれば、いい距離で付き合える。
人に関して、初めて諦めずに関わったという点で、私は件の友人に感謝すべきなのだろう。それがたとえ自己満足であったとしても、だ。さて、今日からまた日々が始まる。うたかたと言えるほど淡くはない現実の中で、とにかく生きるのだ。