からっぽの中身

友人と呼べるようになるにはあと二三度話をしたい知人から、「あなたのつぶやきはうわついていてあなたがぜんぜん見えないようだ」と言われたことがある。とても洞察力のある人だとおもう。ツイッターという場所において私は、いわゆる私自身、素の私、というもので話したことは一度もないような気がする。私は必要とされる役割でそこに登場し、しゃべり、消える。その役割に徹することがツイッターで私に必要とされる唯一のことだった。誰も私自身というものを知りたいとは思わない。私はツイッターのつぶやきによって構成されるものであった。それが素の私の構成にまで影響を与えていると気付いた時、私はツイッターから離れることを決めたのだ。
そも、素の私とはなんぞやと思う方もいらっしゃることだろう。私というのは、今あなたの目の前にこうして文字で構成されている者でしかない。あるいは画面の向こう側から音声を送って来る存在でしかない。物理的存在としてのわたくし、が素の私だというのなら、それはある意味ではそうだ。私は自分自身の肉体的存在というものを信頼している。けれどそれ以上にわたくしであるもの、というのは、思考の方法だと思う。そして、ツイッターにおいて自分自身にとって自分自身らしいと思える思考の仕方でなにかをつぶやいたことはなかった。そこには、思考と呼べるものはなかったのだ。あるのは思考未満の断片であり、順序もばらばらの要素、あるいは要素でさえなかったかもしれない。集合的に構成されるタイムラインが私自身をある点で表現しているという言い方は可能だ。言うまでもなく、それは私の一部である。けれど、それは私という存在を規定するものとしての思考の方法ではない。思考は理性的に制御され、出力されるものだ。私は並べ替えを行わなければならない。「考え方」という言い方は、私にとって私という存在そのものを示す重要な言葉だ。そして、ツイッターというシステムでは、私の「考え方」は表現できなかったとおもう。
そんなわけで最近ずっとブログである。でもこれも、冗長な文章を助長するという点で難しい。その冗長さがもしかすると「わたくし的」思考の方法なのかもしれないが、やはり無駄なものはないほうがいいともおもうのだ。とはいえ、この文章自体が無駄なものである可能性はまったくもって排除できないのだが。