言いたいこと

言いたいことを言う、というのは案外難しい。簡単だ、という方もいらっしゃることだろうが、まぁ、案外難しいのだ。べらべらと脳裏に浮かんだことを話せばいい、というわけではない。
言いたいこと、と言われると、欲求の赴くままにほとばしる言葉のことが思い浮かぶかもしれない。罵りや怒声、不満、反対に、興奮のあまり饒舌になってしまったような場合。こういう場合、たいてい内容よりもその人物の状態を提示することに重きが置かれているので、特に吟味の必要はない。別の面からみれば、言葉や思考の趣味が露骨に表れる場面でもある。


難しいのは、こういう感情によって湧きあがったものを、どうにか言葉に置き換えようとする場面だ。なぜそういう場面が出てくるかというと、相手が自分の好きな人物だったり、とても目上の人物だったり、とてもお役人だったり、下手な言い方をすると公務執行妨害の現行犯で逮捕されたりする相手だったりするかもしれないからだ。そういう場合、感情のままに語ってはいけない、と判断するので、言いたいことを言うのが難しくなる。
個人的に、嫌いな相手には嫌いだと言えばいいと思うし、嫌いな相手とは付き合わなければいいと思う。(そういうのを風情がないと仰る向きもあるだろうが、私はそういうのを好む程度には若造なのだ。)


それから、相手にどうにかしてわかってほしい、という内容がある場合も難しい。この場合、言いたいこと、というのは、伝えたいことだ。伝えたいことを正確に、伝えたい形で伝えるには、言い方に工夫が必要になる。相手のことを考えるというよりも、誤解される可能性を限りなく排除する、ということ。
私個人は、相手のことなど考えず好き勝手やりたい放題に書かれたり話されたりしている言葉がけっこう好きだが、そういう言葉には常に誤解が付きまとう。誤解されていい、誤解されてけっこう、誤解されない発話などない、という方もあるかもしれないが、まぁ極論は極力排していこう(私もずいぶん穏健になったものだ)。
誤解を避けるためには、言い方に注意するだけじゃなくて、文脈を確定したり、状況のディテールを詰めることが大切だ。喉の奥からあがってくる言葉の塊をげぇーとそのまま吐き出してしまうのをこらえながら、その塊を今一度見つめ直しいまここで吐き出していいのかどうかと自問する。げぇーと出てしまったらもう仕方ないので捕捉するしかないのだが、そこでとどめられるなら、修正の機会が与えられる。


メールが一番難しい。
チャットなら、少しは簡単だ。
会って話すというのが、私にはもっともやりやすい。


以前は完全に逆だった。メールによって説明することがもっとも簡単だと思っていた。でも、メールでは伝えきれない情報がものすごく多いということに気付いたのだ。表情、声の音量、息遣い、視線やしぐさ、話しながら何をするのかは、メールでは伝わらない。余計な情報がないとも言えるが、必要な情報が足りないとも言える。
だから、私は数字や日時、場所、用件などはメールの方が優れていると思うけれど、それ以外の場合は、極力会って話をしたいと思う。
ただ、伝えたいこと、というのはけっこうシンプルだったりする。私はあなたのことが好きです、私はあなたに敵意を抱いていません、私はあなたを信用していません、私はあなたが嫌いです。それくらいシンプルだ。嫌いですと伝えるために会うなんていうきつい場面はできるかぎり避けたいが、まぁいずれ訪れるのかもしれない。
メールでやりとりをしていても、そういう態度が垣間見える方とは安心してやりとりができる。それはちょっとした言葉の選び方だったりとか、改行だったり、内容への言及の仕方だったりするのだが、ともかく、メールの文体から考えが読み取れるような方とはやりとりがしやすい。
反対に、何を考えているのかさっぱりの場合はお手上げだ。私自身何を言っていいのかわからなくなる。きっと彼氏彼女なりに伝えたいこと、つまり言いたいことがあるのだろうと思うけれど、伝わってこない。どれだけ文字が連なっていてもわからないのだから、不思議でさえある。霞の塊とお話をしているみたいだ。
こうしてみると、言いたいことを言うためには、人物の確立が前提とされ、その人物の同一性や統一された趣味が必要とされる。それゆえ、そうしたものを持たないもしくは隠している人物に対して私は警戒する。信用できないからだ。話はそれるが、ウェブでのやりとりになぜ不安を持たないのかと問われることがある。簡単だ。そういう人物の前提が少なくともひとつ見えるかどうかで判断している。
さて、私も日ごろこうして文章を書くからには、言いたいことがあって書いている。けれど、はたして伝わっているだろうか。これを書きながら、ずっと自問している。