知ることの倫理

知ることに伴う責任、あるいは苦痛、あるいは知らないということに伴う怠慢という見方、不道徳であるという考え方、は、きわめてキリスト教的(?)ではないかと感じる。つまり、知ることは私たちに科せられた負債であって、あるいはサガであって、たとえ苦しくともそれは為されねばならないものである。そしてその苦しみに耐え続けて知り続けることは私たちが人間として生きているかぎり為されねばならないこと、私たちが為した罪への罰であるので、それを為さないということは怠慢であり、罪である。為したからといって救われるわけでもなく、ただそれに耐え続けることだけが私たちに科されたことであるのだから、私たちは人としてただそれに耐え続けなくては鳴らない。人として生きる限り、私たちは罪を背負っており、この苦しみはすべて、その罪をつぐなうためにある。それゆえ、苦しみに耐え罪をつぐない続ける以外に道はなく、つまりそれこそが生きるということなのでもしそうしないのであれば、生きるということ自体が意味を失う。そのような無意味な生を享受することは罪である。そのような人は人として罰されるべきであるし、不幸であっても不平を言うことはできない。それはすべて自分の犯した罪のせいなのだから。現世的禁欲。