平凡である2

ずっと雲のうえの人に憧れてきた。今も憧れているのに、かわりはない。自分ではできないことを軽々としてのける器量に憧れてきたのだった。反対に、誰にでもできることをして、褒められるなんてかっこわるいと思った。できることが当たり前で、できないほうがおかしい。だから、誰もが感じていることを巧みに表現した、とか、人々の気持ちを代表した、とか、そういうのはくだらないと思ってきた。なぜならそこには進歩がないからだ。すでにあるものを形にしてどうするのだろうと思った。そこにどんな価値があるというのだろう。
けれど人間でいるかぎり、どうしても逃れられないことというのはあるようだ。そして多くの人は(無論わたしも)平凡であり、人間であるかぎり逃れられないようなことを乗り越えるのに、四苦八苦するようになっている。だから、誰もが感じていることを上手く表現するのも、多くの人間から共感を得るのも、そこに躓き迷った人があるひとつの答えを見いだすことができるという意味では、価値があった。
哲学は多くの人には役に立たないが、ただひとりの人の役には立つかもしれない。そしてその哲学は、天才が成し遂げた偉業であるというよりも、ひとりの人間が苦悶しながら導き出したひとつの答えだと言う方が正しく、それゆえ誰もに理解される必要もなければ、何らかの価値をもっている必要もない。哲学は人生訓ではないし、学問でもない。私は否定によって哲学を語ることができないことを知っている(否定は無限に可能だから)。だからあえて断言すれば、哲学はその人がそこに存在していたという証なのであって、しかもそれは文字や文章として得られるのではなく、もう一度、思考によって辿り直すことによってのみ、存在することができるものなのだ。忘れられた哲学も、もし同じ道を辿るひとが現れれば、そこに生き返ることができるかもしれない。
けれどもし哲学がそれだけのものだったとしたら、きっと哲学は続かなかった。哲学は多くの人には役立たないが、しかしある風景を共有したいと望む者にとって、必要なものではある。そして人間はここ3000年くらいずっとそれを望み続けてきたのであって、もし人間という視線から哲学を眺めるとすれば、その風景は同じものであろうとしてきたといえるのかもしれない。
私の望むのはどちらだったのだろう?人間の目か、それともただひとりの私の目か。