かたくな

情報を得ること、何かについて知ることを懸命に拒否していた頃があった。何かを読めば、何かを見れば、私の中に残るわずかな煮凝りまでも押し流されてしまうような気がしたからだ。最初から、そんなものはなかったのに。今でもその後遺症は残っていて、なかなか他人の書く文章を読むことができない。映画を観ることはそれほど難しくない。映画は私とはまったく別の所にあるものだからだ。ところが文章を読むこととなると、拒否反応は甚だしい。読むべきだし、読めば面白いということはわかっているのだが、読む気が起きない。ただの怠惰なのかもしれない、とも思う。
身のまわりの人たちが何の苦もなく行っていることをできないというのは、焦りを呼び起こすものだし、自分ひとりがおかしいのではないかという気持ちにもなる。
そうだ、私は本が読めない。読まないのではなく、やはり読めないというのが正しいのだと思う。最初は読まなかった。それが結局、読むことに対する意欲を奪っていった。最終的に読むことは、私にとって苦痛でしかなくなった。私は自分の手で、ひとつの可能性を握りつぶしたのだ。
興味深いことに、私はその苦痛を自分自身が作り出したということに気がつかなかった。それは、最初から、私に備わっていた不具合であって、私とはそういうものだと思っていたのだ。しかしよく考えると、そのような極端な話はない。読める文章は勿論存在したし、そうした文章を読むことにはむしろ心地よさすら伴っていた。それゆえ、その苦痛は私の作り出した幻影であって、あるいはむしろ、ある種の期待であって、口実、嘘、欺瞞のたぐいだったのだと今では思う。
何かを得ること、知ることに伴う責任が面倒だったのかもしれない、とも思う。知らなかった、では済まされないということ。知っているゆえに、何かを言わなければならないということ。無知は怖いとひとは言うけれど、私は無知であり続けることができれば、それが一番幸福なのだと思う。知らないでいること。わからないままでいること。あるいは、知りながらも何も言わないということ。何もしないということ。発言するということの倫理的重みに、私は耐えられないのかもしれない。私は限りなく感情で生きていたいのに、語ることにはいつも論理や倫理が覆い被さってくるのだ。