地獄の黙示録、ユージュアルサスペクツ
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映画の中心にあるのが語りの恣意性で、映像は語りをそのまま現前化する役割をになってはいるのだけれど、その語り自体が実は嘘だったという話。アガサ・クリスティが『アクロイド殺人事件』でとったのと同じ手法です。
(参考:信頼できない語り手 - Wikipedia)
だから映画自体は伝統的なミステリの方法をなぞっているわけで、謎解き自体はそんなに難しいものではないんだけど、でも最後まで確信が持てないようになっており、そのつくりが素晴らしいなと思いました。
冒頭、ガブリエル・バーンが撃たれる場面で、犯人と思われる人間はもちろん顔が映らない。ということは、顔以外のどこかでヒントを探しておくしかないわけで、それが金色の時計と左利き、というのが目立った特徴です。というか、ここで執拗に手を映しているというのがまああやしいといえばあやしい。
で、結局流れの中で時計が映る場面はちらほらあるものの、いずれも冒頭の金時計とは違う。そしてまた、生き残った人物には左利きの者がいない。それでミステリ的には、限られた人間の中から犯人が決まるわけですので、いずれかの事柄に目をつぶらなくてはならない。誰かがどこかでうそをついている。それでまあ、犯人はケヴィン・スペイシーなわけですが、見ているほうとしては、彼が怪しい怪しいと思いながらも、確信が持てない。いやこいつが嘘ついてるだろと思いつつ、でもガブリエル・バーン演ずるキートンが犯人じゃないかとか思ってしまう。ストーリー展開としては、途中でそういう方向に流れることで、ますます目先がふらふらしていく。
このふらふら感の演出には、やっぱり映像そのものが二転三転していくしかけがあって、同じシーンを異なる仕方で何回も描いていくわけです。バーンが撃たれるシーン、真実だったのは恐らく冒頭のみ、あとはすべて語りによって構成された想像でしかない(画像はイメージですというあれ)。けれど映画の中で構成される以上私たち鑑賞者にとってそれはすべて等価に流れてくる映像であって、結局真実がいくつにも分散します。いずれの映像が真実だったのか。かくして、最後まで真犯人に対する確信はもてないままというわけです。
さて、冒頭の金色の時計は、ケヴィン・スペイシー釈放の場面でようやく再登場、ああここまでひっぱったのかと驚きました。ここまでぜんぶ彼の手の内だったということなのかと。たいへん面白かったです。