自己分裂のち統括

結局明け方五時くらいまで起きてた。
人知れずいくつもブログを書いてる人は案外多いと思う。私もその一人。ざっと数えてみたら七つくらいあった。しかもどれもテーマが少しずつ違う。自分自身の多重さを適当に分けていったらこうなったという気がする。よっておそらく私は七重人格くらいあるんだろう。
時期によってどのブログが更新されるかはずいぶん違う。もうずっと更新していないものもある。
最近は、そういう風に分けられたブログの方が私を形作っているような気さえしていて、それはそれで面白い。実際、ウェブでしか私を知らない人にとっては、私というのはそういうものなんだろう。別に何ら哀しいこともない。日常における他者がそれとどれほど違うというのか、私にはよくわからないほどだ。
私はあなたではないから、私はあなたのことを隅から隅まで知っているわけがない。私自身でさえ、私のことを隅から隅まで知っているとは言えない。細切れの断片があちらこちらにちらばっていて、時折拾い集めながらどうにか体裁を為しているにすぎないのだ。
それでもあなたと話すとき、そんな断片を相手にしてはいられないから、名前という便利なものがある。繰り返しを担保する道しるべであると同時に、それは極限を乗り越えるための、乗り越えた後の完全なものの代わりとして、そこにある。
それはあなたではない(だって名前だから)。でも、あなたと結ばれている(だって名前だから)。それはまるで厚みのない境界のようにして、あなたの側とも、わたしの側ともくっついている。けっして同化しない。にもかかわらず繋がっている。だから名前を呼び、あなたが振り返るとき、私はあなたと繋がっているということを強く実感する。そしてあなたもまた、世界にたった一人ではないことを思い知るだろう。