たくさん聴く

「無理矢理聴かせた」というのは、半分真実だけど、もう半分は真実ではない。なぜならもう半分は、私が聴きたくて聴いたのだ。そして(私にとっては、だが)かなり大量な音楽を毎日聴き続けてわかったのは、少なくとも、大量に聴かないと分からないことがいくつかはある、ということだった。つまり私のやり方は、いつも「おいしいものをおいしいとこだけ」方式だから、全体の量自体はすごく少ない。でもそれだと分からないことがあるということが分かったのは、今回収穫だった。
まず気がついたのは、演奏者の違いや作曲家ごとの違い。そして、「好きな音楽」の範囲。要するに、差異をはっきりさせるという作業をするためには、たくさんサンプルを用意しないといけないということ。
それからたくさん聴くとそれまで自分の中にあった基準がだんだんうまく機能しなくなっていって、じゃあいったい私は何を聴いていたんだろうということを意識せざるをえない。そうやってうすーくのばされた関心の中で、ああそうかこれがポイントだったんだというものがあるときぐっと浮かび上がってくる。(たとえば今回は、自分はドラマチックな音楽が好きだと思っていたんだけど、途中で単にドラマチックな展開を予想させるだけの音楽には飽きてしまい、とするといったい私はドラマチックな音楽の何に惹かれていたんだろうと考えることになり、結局意外性というか、裏切りだということに気がついた、といった過程。これはけっこう、発見だった。)
一般化するけど、誰かに与えてもらうのは楽だし、それなりに評価のあるものが与えられるのだから、面白かったり美味しかったりするのは当たり前で、それで満足してしまうことだってできる。これまで多くのことに関して、私はそれで満足してきたと思う。でも、それってやっぱり一番楽しいところを皮剥いて捨てるような感じだ。なんでも、分かる瞬間が一番面白いし、そのためには過程が必要で、しかも結果は結果でしかないのだから、そこで終わってしまってはダメなのだ。やっぱり面倒くさがらずたくさん読んだり聴いたりすることは大事だよねという、なんだかありきたりなお話し。でもくぎとして書いておく。