ほんの少し未来

今読んでる論文に、未来のことをすべて完璧に推定するスーパーコンピュータが出てくる。すべて完璧なので、ある人物がある銀行をいつ襲うのかまで分かる。だが、これってちょっと変じゃないか。普通、「いついつあんたの銀行は襲われますよ」と言われて何も対策を講じない経営者はいない。とすると、それはさまざまな対策をすべて施したとしてもなお、その銀行が襲われるということを意味する。さらにそれは、その人物がそうした対策を偶然にか意図的にかは問わず、すべて確実にやっつけることを意味する。要するにこれは、決定論的世界なのだ。論文では、人々はそうした世界であっても道徳的責任をその人物に課すという心理学の実験について述べられている。実に83パーセントの人が、彼は強盗に責任があると結論している。
ところで、このコンピューターはそのあまりに膨大な仕事量のために、ほんの少し先のことしか予言できないのだと考えると、ちょっと面白い。その予言は正確無比なのだが、それはほんの少し先のことだけなのである。その人物がある銀行を襲うということが、数分前にわかったとする。もちろんスーパーコンピュータは、自分の予言が人々にどのような心理的動揺を与えるのかも、そして当の彼がそれをどのように利用するのかも計算済み、ということになる。人々は、どんな行動を取るのだろうか。職務放棄するかもしれない(どうせ強盗されちゃうんだし)。敢然と強盗に立ち向かうのかもしれない(ここで泣き寝入りすることは俺の美学に反する)。強盗の彼は彼で、強盗に入るのを突然止めるかもしれない(どうせ成功するんなら、何もしないことにも意味があるはず)。そしてスーパーコンピュータは誰かに伝えるために、それらをどんどん記述していく。しかし、それは、決定論だろうか。
この予測を、さらに限りなくほんの少し先の未来にするなら、どうだろう。たとえば一秒後。あなたはこれからコップを落とします。ガチャン。今から床が抜けます。ズボ。後の人は強盗です。手を挙げろ!あるいはもっと短く。右に曲がりますと言われながら右に曲がる。転びますと言われながら転ぶ。株価について考えますと言われながら考える。あれ、これって決定論
まだある。予言にとってすごく不利なのは、たとえもしあらゆる瞬間のあらゆる状況を測定し予測し予言することができるとしても、それを人間に完全にすべて伝えきることが不可能だということだ。もし言葉にするとしたら聞き取れないし読み取れないくらい膨大な量になる。もし伝えられるとしたら、完全なインスピレーションあるいはイメージの形で受けとるしかないだろうが、そんなイメージの洪水に溺れていたら、日常生活なんて営めない。
結局、完璧に未来を予測してくれるコンピュータを有効活用するためには、こちらが質問するしかない。たとえば、いつ、私の銀行は強盗に襲われますか?コンピュータはそれに対して答えを返す。10年後の今日です。しかし、経営者の不安は尽きない。それまでに、自分の銀行が他の経営者の手に渡っているかもしれないからだ。そこで経営者は質問を繰り返す。私の銀行はそのとき、まだ私のものなのでしょうか?コンピュータは答えを返す。だが経営者はまだ不安だ。もしかするとそのときはもう自分が死んでしまっているかもしれない。私はそのとき生きていますか?コンピュータは答える。経営者は、永遠に問い続け、コンピュータは、永遠に答え続ける。経営者はいつしかコンピュータの横で寝泊まりするようになり、コンピュータと問答を繰り返すことにうんざりしつつも、それでもコンピュータに問いかけることを止めることができない。
こんな事態を避けるためには、私たちはいつか質問を打ち切らなければならない。そして、あいまいな部分を残したまま、この世界は決定されているのだという気分だけを抱いて、やはり自分の意志というものの存在を信じながら生きていくしかない。結局、スーパーコンピュータがあってもなくても、私たちの生活は特に変わらないのだ。
決定論の過剰さと無力さは、同じところに根がある。あまりに膨大すぎると、私たちにとってそれはほとんど無に等しい。