書くこと、読むこと、つらつらと

大学の年報に載せる書評のゲラができて、そういう活字になったものを読むと、とても嬉しい。非常にローカルでほとんど誰の目にも触れることのないものだと分かっていても、嬉しいのだ。
最近はまた、他人の書いたものを読むのが苦痛ではなくなった。去年の後半は他人のブログを読むのが苦痛でしかなく、ごく少数の例外を除いてほとんど自分の書いたものと論文だけを読んで過ごした。悪意に触れたとか、うんざりしたというのとはまた違う。とにかく、飽きた。喋り言葉にも、羅列にも、とにかく無目的な文字列に飽きたのだ。それとは対照的に、論文は面白かった。わからないことも多いが、目的をもって書かれているものはそこへ収束していける。あるいは、専門家の書く専門的な話がとにかく面白かった。信頼できる文章かどうかは、読めばわかるから、とにかくネットでそういう類の文章を読んだ。ニュースも大丈夫だった。
ここでもたいがい、無目的な書き方をしてきたので、自分自身がそうではないとは言わないが、おしゃべりができない心境だったのだ。しゃべるということは、私の能力の中でもっとも劣るものの一つだ。そして目的のないブログは、まさにそのおしゃべりと同じで、私はそのやりとりを受け入れることができなくなったんだろうと思う。自分に他人が流れ込んでくるのを無視することができなくなっていた。
今またようやく、他人を他人として見ることができるようになって、ブログというものを読むことができるようになってきた。文章を私と分離し、他人として無視することができるようになってきた。
そんなことを考えていると、私というのは、やはり書く人間なのだろうと思う。自分のことを伝えるために、私はいつも書いてきた。しゃべるのではない。手紙や、メールや、ウェブや、小説や、論文で、とにかく書いてきた。書けば伝わると思っていたし、その方法をずっと考えていた。それであまりにしゃべることをおろそかにしていたせいで、未だに目的のないおしゃべりが苦手だ。*1
このサイトは、基本的にしゃべるように書こうと思ってきたのだが、もう難しいのかもしれない。しかしこんなことを言っている端からきっとしゃべるように書き始めるのだろうから、あまり信用しないでいただきたい。と、つらつらと。

*1:この間、ある人に「〜ができてすごいですね」と言ったら、「そんなことないですよ。まだまだ適いません」と言われて、その後なんと続けたら良いのかわからなくなってしまった。謙遜というのは、いつも困る反応の一つだ。