『善き人のためのソナタ』の感想が書けない件

一応ありきたりな感想文は書けたわけですよ。でもあまりにありきたりすぎて本当に恥ずかしいので出せません。お蔵入りってやつです。だれも私の蔵なんて覗きたいとは思わんだろうがな。
で、なんで書けないのか考えてみたところ、あの映画には自分に引きつけて理解できる部分がほとんどなかったからなのだということに気がつきました。
たとえば上述の『パフューム』について、私はかなりはっちゃけた感想文を書く自信があります。他の誰にも書けない文章をあの映画に関して書く自信がある。それは、ほとんど自己嫌悪や近親憎悪に近いような感情を、あの映画に感じるからです。あそこには私がいる。私の中の奇妙な願望が、あの映画と共鳴するのです。それは幸福の絶頂で死にたいという願望と、完全な絶望の中で生きたいという願望です。どちらもおそらく実現しません。私は非常に平凡な人間ですから、きっと幸福の絶頂でも生きているでしょうし、絶望の中でも希望を見いだせるでしょう。そしてどちらも実現しないからこそ、願望として抱いていることができるのだと思います。実現してしまったら、私はたぶん、本当に生きてはいられないでしょう。絶対に実現しないことを強く望むというのはどういうことなのでしょうか。それは私が生きていたいということなのだと思うのです。そして『パフューム』からはその予感を、戦慄を覚えるほどに感じるのです。
ところが『善き人のためのソナタ』は、よくできた映画だと思うのだけれど、どうしようもなく私からは遠いのです。むしろ、私は監督に対して何か書くことはできるように思います。けれど、映画に対しては難しい。どの登場人物もしっかりと描かれ、地に足がついていて、どこかにいてもおかしくないほどの出来ではあるのです。けれど、私は、そこに生きてはいなかった。東ドイツの、あの体制下にあるということが、どうしようもなく現実味のない出来事としてしか理解できなかった。一面では知識の薄さでしょう。それは疑いない。けれど、それ以上に彼らの生きたという時間や、その世界が、私と繋がらなかったのです。
私は、これが私の欠点だということを自覚しています。本当に欠点だと思う。でも、私にはこのようにしか書けないのです。私は生きたことのない生を書くことはできないし、見たことのないものを見ることはできない。あらゆるものを私に繋がるものとしてしか書けないのです。たとえば誰かの内面に同化し、同じプロセスを辿るということも、あるいは誰かの行動をものすごい確度でシミュレートするということも、私にはできない。それが私の限界であり、欠点です。
もし私が、知識を詰め込んだ仕方で何かを書いたとしても、それは本当につまらないものにしかならないでしょう。私はそのとき考えていないからです。誰かの考えたことを適当にはめ込んで形を作っているだけだからです。それは私が書く必要のない文章です。そしてそれを面白いものに見せる努力を私は多分しないでしょう。
ないものは出せない。簡単なことです。私は私のどこかを切り取った形でしか文章を書いてこなかったのですが、それはそうしてきたのではなく、そう書くしかなかったからなのだということにようやく気がついたというわけでした。