あなたになりたい恋心〜片桐教習所はなぜ不気味なのか〜

 完全に、ネタバレありでいきたいと思います。ラーメンズのコント、「片桐教習所」未見の方はご注意下さい。


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 教習所とは、何かを習い覚え、免許をもらう場所である。たとえば自動車教習所は、自動車の運転を習い覚え、運転することを公に免じて貰う最初の場所、ということになる。では、このコントのタイトル「片桐教習所」とは、一体何を習い覚え、何を免じてもらうところなのか。「片桐教習所」というコントに通底する不気味さは、まずこの、本来習い覚える対象ではないはずの「片桐」が「教習所」にくっついているという不自然さから生まれる。
 さて、小林は片桐教習所に通い始めて三日目らしい。片桐教習所では、片桐を習い覚えるための様々な訓練が段階を経て執り行われる。「揺れ」たり、「掻き出し」たり、「お高くとまった」りするのである。当然小林は「片桐」になりたくて*1、そのために教習所に通っている。
 ところで、「片桐になる」とはどういうことをいうのだろう。教習所の教官は、当然ながら「片桐」である。彼は「本物の片桐仁」であり、「片桐」免許の所有者であると同時に発行者である。しかし「片桐」免許の中身とは一体なんなのだろうか。
 自動車の運転免許の場合、「自動車を運転すること」を許可してくれる。同じように考えれば、片桐の免許とは、「片桐であること」を許可するものである。
 「片桐であること」を許可された人間には何ができるようになるのか。自動車の運転を許可された人間は、自動車を運転できる。同様に、片桐であることを許可された人間は、片桐であることができる。そう、「片桐教習所」では、「片桐仁」という人間になる資格を手に入れられるというわけである。
 だが、「なぁんだ、じゃあ小林賢太郎は、片桐仁の「ように」なったりできるようになるんだね」と思うのは早合点である。そう思う心には、未だ小林賢太郎という一人の人物が、片桐仁という人物を装ったり、元に戻ったりできるという認識が残っている。
 ところが、このコントはそう甘くは作られていない。小林賢太郎は、片桐仁の「ようになる」わけではなく、最終的に、片桐仁に「なる」。そして、元に戻らない。小林賢太郎は「片桐」ライセンスを取得し、「片桐仁である」ことが許されると、それ以降、「片桐仁になってしまう」のである。*2
 そうなってくると気になるのは小林の行方である。小林賢太郎はどこへいってしまうのだろうか。実は小林賢太郎は、もはやどこにもいない。いるのは、片桐仁だけである。どういうことか。
 片桐仁になるということは、片桐仁によく似た人物がどんどん増殖していくことではない。免許取得者が「片桐仁になる」以上、それは不可能なのである。なぜか。「本物の片桐仁」は、生きていて、常に新しい性質を生みだし続ける。新しい笑いを生み、新しい言葉を話す。だとすれば、片桐によく似た人物が、「本物の片桐仁」と同じ人物であり続けることは、その人物が「本物の片桐仁」と同じ性質を共有し続けない限り、不可能なのである。片桐仁と同じ人物であることができる方法はただ一つ、「本物の片桐仁」と<一つになって>しまうこと、である。
 こうして、片桐教習所で「片桐仁である」ことの資格を得るということは、片桐仁としてのあらゆる性質をそなえた「片桐仁」その人になる、ということ以外にない。片桐教習所は、単に「片桐である」ことの資格を得るのではなく、自らであることを捨て、「片桐になる」ことを選択する場所だったのである。
 コントのラストでどよめく観客はおそらく、この、小林賢太郎の消失と、片桐仁への同一化という結末に驚きと、多少の不気味さを感じていたはずである。
 だが、同時に、その不気味さは恋心に似ている。小林賢太郎片桐仁になりたかった。そして、片桐仁になるということの徹底は、片桐仁本人を登場させることでしか成就し得なかった。小林は、自身の望みが自身の望みを裏切る形でしか成就されないことに絶望したかもしれないし、安心したかもしれない。それは恋をして、相手と一つになりたいと願いながら、決して一つになれない心と、同じ形を描いているように私には思われるのである。*3


 <小林賢太郎片桐仁になる>、というこれだけのことを、あれだけ劇的に、あれだけ不気味に、そしてロマンチックに演出できるのは小林賢太郎だけだ。単に名無しの誰かが別の誰かになるわけではない。それが小林であり、片桐であるからこそ、「片桐教習所」の手法と結末は、鮮やかな驚きを喚起する。

*1:「おふくろに、楽させたくて」という台詞のように、片桐になるのはかなり決意がいったようである。

*2:「ちょっと髪が全然短いじゃない」「え、やっぱりでもそんな急には」「明日までに伸ばして、パーマかけてくるんだよ」「…はい」「無理だったら下の売店で仮免用のが売ってるから、買っといてね」というやりとりによって、片桐仁の特徴を真似ることは、「仮染め」のことでしかない、という点が強調されている。

*3:だからといって小林賢太郎片桐仁が恋愛関係である、ということを意味しているのではないということは、様々な方面へむけて一応断っておかなくてはならないような気がする。