白川さんの死に思う

父は辞書をひくのが好きで、私の尋ねに分からないことがあるとすぐにでっかい辞書を持ってきてはひいていた。その中に、『字統』という、焦げ茶色の一冊の本があったのを今でもよく覚えている。小学校へ通い始めて漢字を覚えた私に、父はその本を見せながら、この字にはこんな意味があるんだよ、と丁寧に教えてくれたのだった。私は一つ一つの文字がもつ、豊かな情景に釘付けになったものだ。
父はいろいろと欠点のある人だが、ときどき良いことを言う。そのうちのひとつに、「辞書はどんなに高くてもお金を惜しまないこと」というのがある。理由はいくつかあるのだが、要はその編纂にかける労力と情熱は、値段でははかれないのだということ。そして私たちがそこから得られるものは、その値段の何倍も豊かだということ。この二つが大きなものだったと思う。
『字統』は、そんな父のお気に入りの本のひとつだったのだ。
私は白川静という人のことをほとんどしらない。けれど、偶然にも一昨日読んだ本の中に、彼の見解が参照されていた。それは「文」と「字」の由来に関してで、相変わらずとても面白かった。
そのとき、白川静という人は本当に希有な人物だったと実感したのだ。彼はただ生きて、ただ死んだのではなかった。彼は彼の探求の足跡と、探求それ自体をそこへ残していった。彼の方法に難しい事は何もない。ただまっすぐに自らの問いへと向かい続けた。そうして彼の後に堂々と残された文字の起源への問いと、そこへ積もる情熱は、今も十分に私の胸を打つ。
何かを成し遂げるというのは、そういうことなんだろうと思う。