二階堂さんのこと

「八本脚の蝶」 (http://note2.nifty.com/cgi-bin/note.cgi?u=ICF13700&n=5) が本になったのだそうだ。私は、「ベルトーチカ」(http://www14.big.or.jp/~onmars/)のdemiさんが彼女のことを書いていたせいで、彼女の文章を、彼女が亡くなった(と思われた)直後に読んだのだけれど、その時は、一ページもまともに読めなかった。それは、あまりに身近すぎたので。
たとえば彼女の読む本や、彼女の書き付ける言葉や、彼女の憧れや装いや振る舞い、彼女の作る物語は、かつて私が憧れ、苦い思いと共に決別したものとあまりに重なり過ぎていたし、当時私は、それらを過去のものとして捉えることができるほど、「大人」ではなかった。そうして、三年の歳月が過ぎて、私が今こうして彼女の文章と再会することになったのは、偶然だが、偶然であるが故に、奇妙で静かな感動すら思わせた。だから私は、あのとき読めなかった彼女の言葉と物語を、今読むことにしたのだった。この時を逃せば、おそらく私は一生読まないだろうと思われた。
読み始めて、愕然とした。予想以上だった。それは、以下の文章を読んだ瞬間に、はっきりとした確信に変わった。

それから私は、怪我や火傷や皮膚病や、その他一般に「気持ち悪い」、「怖い」と言われる有様に慣れようと心がけることにした。
轢かれて死んでいる猫の死体が腐って蛆がわいているところを観察し、死体写真を探し(昔はインターネットも悪趣味雑誌もなかったし子供だったから大変だった)、図書館で医学書(特に法医学)を借りて写真を眺め、食事時中テレビのニュースで手術の様子が映し出されたときは目を背けず見た。自分が怪我をしたときは(よくした。今もよくする)、虫眼鏡まで出してきてじっくり眺めた。

大切な人がどうなっても助けられるようになりたいとそうしたんだという話を母にしたら、「そうだったの!? 感動したー。奥歯はそういうのが好きなんだと思ってた。」と言われてしまった。
違います。大体私は自分が痛いのはともかく、人が痛がっているのは駄目なの。
だから、外国に行くとよくある拷問博物館には一度も行ったことがありません。
二階堂奥歯「八本脚の蝶」:2002年7月8日(月)その2)


あのときの私が、ここに、はっきりと。
ずれている。ずれるしかない。あなたの読む私。あなたに読まれた私。
おそらく、違和感。他者に切り取られた私。単純な私。異なるストーリーを描く私。そこに再提出された意味をまとい、思いこみ、そうだったかもしれないと思いながら、頭のどこかで、違う物語があったのに、それはどこにも届かないのだと叫ぶ私。

私は「少女」ごっこをする女の子になった。
素敵な抽象物になろうとした。
お手本は例えば美術館で見た天野可淡の人形。

でも勿論私は自分が「少女」じゃないということは知っていたのだ。
そして大好きな「少女」を都合よく利用して卑しめる心性に対して敏感になった。
なにしろ「少女」は女の子のようには実在しないから、その観念を持つ者がきちんと護らなくては消えてしまうのだ。

私は「女」ではないのをはっきり知っている。
それが架空の存在であることをはっきり知っている。
(なにしろ女だから。)
だから、私はまた素敵な抽象物になろうとした。

自分の躰は着せ替え人形だと思う。
問題なのは、着せ替え人形はいくつでも持つことができるが、自分の躰はひとつしか持てないということだ。
このたったひとつの着せ替え人形で私は遊ぶ、メイクやお洋服や小物を入れ替えて遊ぶ。
この躰は私が作った。いろいろなイメージを投影した作り物だ。
女を素材にして「女」を作ってみました。

ドラァグ・クイーンの知人が何人かいる。
ドラァグ・クイーンとは、表象的・社会的に女性的とされている記号を意識的に過剰に身につけた人間のことで、通常男性である。とにかく派手なドレスを着て、激しく化粧をして、女性性をパロディ化する。

肉体すべてをその観念の金属でできた着せ替え人形にしてみた。
私は、女のドラァグ・クイーンだ。
(同上:2002年10月8日(火))

いくら言葉を尽くしたところで、この感覚は表し得ない。けれど、確かなのだ。私は彼女で、彼女だった私は、死んでしまった。そうして、今の私がいる。


彼女の日記は加速する。彼女は彼女であるところのものに呑まれてしまった。彼女は忘れてしまったのだろうか。たぶん、違う。彼女ははっきりと覚醒していた。彼女は、狂ってなどいない。むしろ、酷く冷静な気配の中で、どこまでも見渡せる知性と共にあった。彼女は、おそらくすべてを見ていた。あるいは、見えかけていて、そして、焦っていた。彼女は、魔法が解ける前に、彼女自身であるうちに、彼女が彼女でなくなる前に、彼女が彼女であるところのものであるうちに死んだ。あるいは、「そう見えるうちに」。魔法が解けることを何よりも怖れていたのは彼女自身だった。


それは多分、ある種の人間にとっては非常な共感を呼ぶ。共振とでも呼べるものかもしれない。私のように。重なり合ってしまう。けれど、おそらく多くの人々にとってそれは、戯言であり、狂言であり、意味不明の、譫言なんだろう。そしてそのようなものとして、彼女は彼女を提出していたということが、むしろ強調されるべきことなんじゃないだろうか。


いや、けれど、やはり言葉を費やしすぎた。輪郭はぼやけて、彼女は拡散してしまった。私はいつも失敗する。どこで切ったら良いのか。そうして、だから、私は生きているのだろう。