ウェーバーの罪と罰

先日提出し意外と好評を博したウェーバーレポート。
しかし今見ると恥ずかしさに穴に潜りたくなります。あああ穴をください。
おろかなので友人に促されるままに公開してみます。とくとご笑覧あれ。


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ウェーバー罪と罰 〜安藤英治のウェーバー観を通して〜


 安藤英治の、マックス・ウェーバーに関する描写は魅力的である。彼の著書『ウェーバー紀行』は、ウェーバーの業績よりはむしろ人物像の描写に重きを置いており、ウェーバーのもつ多面的な魅力の理解に貢献している。私がここで明らかにしたいのは、そのようなウェーバーという一人の人間の、精神病理的な側面である。
 しかし安藤の目を通してウェーバーを見ることは、危険な作業である。なぜなら安藤の内にはウェーバーへの強い敬愛と憧憬の念を見いだせるからであり、そうした感情は時に、対象への冷静な視線を失わせることがあるからだ。私は、安藤のそうした愛情が、ウェーバーの精神病理的な側面や、「罪」意識と宗教との関わりを直観しながら、『ウェーバー紀行』において詳細な記述を避けた原因なのではないかと考える。
 そこで安藤が様々な文献に書き記した断片的な記述を取り出すだけではなく、関連する事柄を参照し、他の研究者の見解を取り入れ、補完することで目的を達したいと考える。安藤英治の見いだしたウェーバー像を中心として、近代の偉大な知識人として様々な業績を残したウェーバーではなく、自己の罪深さと葛藤し続けた人間としてウェーバーを見直すことが、本レポートの目標である。


■共存する二項 奔放さと、抑鬱
 ウェーバーは1898年から1902年にかけて、深刻な神経症に悩まされていた。この直接の原因と考えられているのは、1897年における父との対立、そしてその後の父の急死である。しかし、それ以前からウェーバーには奔放に振る舞う様子と、深刻に考え込む様子が共存していたようだ。たとえば、
 「ビールを鯨飲し、浪費の尻ぬぐいを両親の送金にあおいで父の立腹を招いた」「倹約の素質など全然持ち合わせていない」とマリアンネは当時のウェーバーを紹介している。またハイデルベルク大学の第三学期には慣行の決闘を行って頬に刀傷をうけた*1
 「大いに飲んでご機嫌になり、ネカール河にかかった例の旧大橋の上から着ているものを一切脱ぎすてて河に投げ込んだ*2
 こうした安藤の描写からは、非常に陽気なウェーバーの様子が伝わってくる。しかし試験のためにほとんどひきこもって勉強するなど、自分自身を統制しようとする面も見られた。
 このように若い頃からウェーバーの中には価値の両端が共存しており、それは後々の活動的な姿と、鬱々と引きこもる姿を彷彿とさせる。こうした、相反する価値の共存は、両親から受け継いだ資本主義の精神と、敬虔な宗教的世界観への理解にも、見ることができる。


■家庭環境?プロテスタントと資本主義
 ウェーバーの複雑な精神構造、安藤が言うところの「深い心理の襞*3 」は、両親の家系に連綿と連なる夫婦の対立関係によって育まれた。
 「この家系につらなる幾組かの夫婦がティピカルに対立した価値世界に住んで、価値の相剋に悩み、そこに生ずる精神的緊張が家庭の日常的円満を圧迫していた*4
 と安藤が書いているように、母方の祖母と祖父の対立、両親の対立、叔母のイダ夫妻の対立など、ウェーバーの家系においては夫婦間の思想的対立が常に見られたのである。また、母方のファレンシュタイン家において精神症を発症する人間が多かったこと、この事実も、この家系に精神的緊張を強いる何かがあったことを示唆する。
 もっとも影響を与えたのは、言うまでもなく両親の対立である。母のヘレーネは、祖父の道徳的厳格主義、祖母の宗教的敬虔を受け継ぎ、「道徳的監督官 *5」として子供達に振る舞った。父マックスは根っから商人であり、功利主義を信条とし、家族に対しては家父長制度の権化として振る舞った。ヘレーネは、自分の夫との相容れなさの仲介(もしくは告白)を、子供に、とりわけ長男のウェーバーに求めたようである *6
 しかしウェーバー自身は、少年時代においてはむしろ父親の世界に親しかった。父親のサロンに出入りする数々の著名な知識人たちに刺激され、ビスマルク礼賛という態度もこのころに身につけられたと考えられる。当時の裕福な家庭の優秀な子供には珍しいことではないだろうが、ウェーバーの初めての論文が13歳で書かれている点からも、彼の思索の早熟ぶりが伺える。
 ウェーバーが、母親の敬虔な宗教的世界観に目をひらかれるのは、兵役に服していた時期に、イダ叔母の家へ出入りしていたことによる。安藤はこの「シュトラスブルクの体験*7 」が、後のウェーバーの仕事に大きく影響しているとする。イダはヘレーネ以上に敬虔なプロテスタントであり、その生活には宗教者としての振る舞いがにじみ出ていた。実際に、ウェーバーはイダから「およそ人間には外面的な職業義務遂行のほかに別の課題があることを教えられ*8 」、チャニング牧師によって「自由」とは何であるかを教えられた。ただ、それを理解しはしたが、「宗教的なるもの」の世界に住むことはなかった。


■父と、エミー
 こうした家庭背景を持ったウェーバーは、1898年からたびたび神経症を患うようになる。マリアンネの書いた伝記『マックス・ウェーバー』にも書かれている、1897年における父と息子との激しい対立(「父が息子を裁いた」と記されている)と、その後の父の急死が、ウェーバーが精神症をひどく患うことになる直接の原因である。これは、山之内靖の『マックス・ヴェーバー入門』でもはっきりと触れられている*9 。この対立の背後には、先述した両親の夫婦間の対立があった。
 また、それ以前にイダ叔母の娘エミーを媒介して、ヘレーネが自分の夫婦生活の不満を漏らしていることも、原因だったと安藤は述べる。ウェーバーは彼女と親しくしており、恋愛感情も抱いていたようなのだが、結婚することはなかった。原因は、「健康上の落差」であったようだが、安藤はもう一つ、先述の関係をあげており、このような状態を継続していくことの苦痛がウェーバーをエミーから離れさせたのではないかとしている。


■レントナー、「職業人」、労働
 ウェーバーは上述のひどい神経症のために、大学教授の仕事を辞めざるをえなかった。それでも彼が支障なく暮らし、各地への静養や、多彩な執筆活動を続けることができたのは、祖母エミーリエの莫大な遺産のおかげである。自分自身を「レントナー(利子生活者)」と呼び、資産家であることを自覚していたウェーバーは、「労働者階級の運動に口をきく資格がない」とのべていたようだ。
 ウェーバーが自分自身の収入によって生活していなかった時期は長く、大学を出て司法官試補試験に合格した後の7年間も、父親の庇護下に暮らしている。マリアンネと結婚し、その後数年間自身の収入で暮らした他は、彼はほとんどを遺産と年金、両親の庇護に頼っていたのだと言える。
 このことが彼の精神にどのような影響を与えたのか、直接書かれた部分はない。罪の意識を感じるということは無かっただろう。事実、ウェーバーは精神の危機を乗り越え数多くの執筆をこなし、各地への訪問も成し遂げている。
 ただ、「レントナー」であることへの引け目とは別に、プロテスタント的な「職業人」であることを、ウェーバーが重荷と感じていたことは確かであった。彼は、自らの仕事が生にどのような意味を持つのかを考えることなしには、仕事を続けることができなかったのである*10山之内は、病気の最中、ウェーバーが幾度も「祈り」という宗教的所作へ誘惑されながら、それを拒否している様子を取り上げている。母親のように、祈りへすがってしまえば楽になれることを知りながら、それを拒否し続けるウェーバーの姿には、父親と母親の相容れない世界をいかに折り合いつけて受け容れることができるのか、模索する様子が伺える。ウェーバーの精神症の克服には、「救い」として存在する宗教的世界を、近代化された自身の精神においてどう受け容れることができるのか、が大きなきっかけとなっていたのである。


精神分析の流れ、病の克服
 安藤の著作においては、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がアメリカ旅行の影響下にあったと語られるが、山之内は更に、この著作はウェーバーが近代的な職業人の世界観を相対化した過程として捉える。そして、それにもかかわらず神経症が完治しなかったのは、何を新しい生の根拠とすれば良いのかということが、分からなかったせいだったとする。
 ウェーバーは新しい生の根拠を手に入れられたのだろうか。1906年頃からハイデルベルクで起こった「精神文化の新しい潮流」は、その点で無視することはできない。ウェーバーの周囲ではオットー・グロースに代表されるこの潮流は、すべての規範を相対化し、自己を縛るのは自己自身のみであるという掟を新たに作り出した。そして更に、(古い価値基準に根ざす)掟や義務の犠牲となった、性愛を解放しようという運動へと発展する。
 この、フロイト精神分析を宗教化していくような動きに対して、ウェーバーは一定の距離を置きながらも、次第に価値観を転換させていく。そして、倫理的規範と、人間的情念との対置を抱え込んでいくことになる。
 山之内はこれを「演劇的テーマ*11 」と呼び、ウェーバーがこれによって、人間的側面の暗く、不確実な側面におびえるのではなく、むしろそれをしっかりと受け止め探求していこうという姿勢を見いだしたのではないかとする。そこには、自らの失った宗教的価値観を取り戻すことなく、失われた足場をどこかに再び見いだそうとするのでもなく、ただひたすらにこの現実を受け止め探求していく、鋭い視線を持ったウェーバーの姿が考えられている。
 果たして、ウェーバー神経症は完治した、と山之内は語るのだが、しかし本当にそうだったろうか。安藤によれば、ミュンヘンで過ごしたウェーバーの最後の一年は、再びひどく神経質になり、滅入っていたようである。人間の精神的な弱みが、完全に克服されることなどあるとは、やはり考えがたい。ウェーバーは、結局深刻な病に陥ることはなかったとしても、生涯、自らの生の根拠を探し続けていたように見える。それが、山之内の言うようにニーチェ的な力強い肯定によって最大の難関を切り抜けていき、後期の著作へとつなげられていくのだとしても、である。なぜなら、これはきわめて一般論にならざるを得ないのだが、宗教というはっきりとした落としどころを失った現代において、誰もが生の根拠を見いだしあぐねているように見えるからであり、もし現代にウェーバーが通じているのだとすれば、それは、ウェーバーが現代人と同じように、底の抜けた根拠確定作業の内で悩み続けた人物として見いだすことができるからではないか、と考えられるからである。そして私は、この人間くさいウェーバー像は、卓越した業績とともに、ウェーバーが今なお参照されるべき十分な根拠ではないか、と考えてしまうのである。

■引用、参考文献

安藤英治『ウェーバー紀行』岩波書店、1972(昭和47年)
安藤英治編『ウェーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神有斐閣新書、1977
マリアンネ・ウェーバーマックス・ウェーバーみすず書房、1965/1975
山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』岩波新書、1997
トレイシー・B・ストロング「ヴェーバーフロイト?職業と自己意識」(モムゼン他編『マックス・ヴェーバーとその同時代人群像』ミネルヴァ書房、1994、pp.403-422)
ヴォルフガング・シュヴェントカー「生活形式としての情熱?オットー・グロースをめぐるサークルとマックス・ヴェーバーにおける性愛と道徳」(モムゼン他編『マックス・ヴェーバーとその同時代人群像』ミネルヴァ書房、1994、pp.423-443)

*1:安藤英治『ウェーバー紀行』岩波書店、1972、p.75

*2:前掲書、p.87

*3:前掲書、p.66

*4:前掲書、p.97

*5:前掲書、p.98

*6:安藤英治編『ウェーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神有斐閣親書、1977、p.24

*7:安藤1972、p.99

*8:安藤1977、p.25

*9:山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』岩波新書、1997、p.110

*10:山之内1977、p.114

*11:山之内1977、p.134