食べる


ふしぎなことに、ぱたりと言葉が途絶えることがときどきある。何を表現するにも言葉がでてこなくなる。ここ一週間ほどそういう調子だった。ようやく戻ってきたので、少し書いたり、作ったりすることにした。
というのも、昨日からずっと雨が降り続いていて、外に出る気もしない。買いためた食材で料理を作り置きしようという魂胆だ。
まず、先日作っておいたタルト生地を焼いて、パンプキンパイを作る。そう、なんとかカボチャを手に入れることができたのだ。ところが大切に置いておきすぎて、半分くらいぐずぐずと腐ってしまっていた。悲しい。とても。貴重なかぼちゃだから、いざというときに食べようと大事に大事にしてあったのだが、食材には鮮度というものが存在することをすっかり忘れていた。しょうがないので茹でてペーストにして、パイのフィリングを作る。オットの母上から教えてもらったこのパンプキンパイは、プリンにもなる柔らかいフィリングが特徴で、できあがったら絶対に一晩以上寝かせる。待ちきれないから出来上がったらすぐ食べたくなるのが人情というものだが、そこはぐっと我慢なのだ。そして二日ほどたって冷蔵庫から取り出したパイは、生地までしっかりとしまり、濃くておいしい。いつもはビスケットを砕いて台を作るのだが、特訓中のタルト生地、パート・シュクレで試してみた。さて、できあがりはいかがなものか。結果は明日までお待ちあれ。
ケーキをオーブンに突っ込んだ後、先日の新年会で好評だったチリコンカルネに再挑戦した。だが、まぁ、当然かもしれないが、夏野菜であろうセロリは現在スーパーにないことが多い。その代わりに、キャベツほどもあろうかというまんまるい根のようなかぶのようなものが、「セロリ」として売られている。かなりグロテスクな外見なので最初は鳥肌を立てながら調理していたのだが、これが煮込み料理にとって欠かせない食材なのだ。おそらくセロリの根に当たる部分なのだろう。香りはセロリそのもの。食感は、かぶとイモの中間。で、あとは玉ねぎや人参、パプリカ、マッシュルームなどをざくざく切り、トマト缶とキドニービーンズを突っ込み煮込む。食材を切るのに多少時間はかかるが、煮込み料理はほっておけばできるので私のような性格の人間にはありがたい。味付けはタカの爪と塩コショウ、ケチャップくらいのもの。あとはスパイスでナツメグと月桂樹をわりと大量に入れる。牛肉も、炒めるときにニンニクを入れ、ちりちりになるまで炒めて白ワインを投入すれば、臭みは全然気にならない。
さてある程度できあがったところで、次にサイドディッシュ。今回はクスクスにした。ドイツではパスタやクスクスが安く手に入るので、洋食好きの身としては大変嬉しい(ちなみに毎度いろいろな方に日本食恋しくならないかと聞かれるのだが、全然ならない)。フライパンでニンニクを炒めクスクスを空炒りしたところへお湯を入れ、蒸発したら蓋をして10分ほど蒸す。これだけ。簡単!味付けは好みだが、今回はバターに塩コショウ、お酢。さらにトマトとレタスを刻んで放り込んだ。
で、冒頭の写真となる。お味はまぁ、我ながらおいしくできたのではないかしら。食事そのものにはそれほど関心がないのだが、料理することそのものは好きだ。とてもとても、幸せな時間だとおもう。

希望という名

はっきりしないことがきらいだ。結論は明解なほうがいい。せっかちなので、なるべくすぐ結論がほしい。
ある友人は、ずっとはっきりしない人間だった。何かと言えば適当に他人に合わせてものを言う人間だった。それが、最近すこしずつ変わってきたと思う。嫌なことは嫌だと言えるようになった。ほしいものはほしいと言えるようになった。誤魔化すことをやめるようになり、結論を出すことをおそれなくなった。そして彼はいま、もうひとつの結論をだそうとしている。いままでずっと適当に誤魔化してきたことに、結論をだそうとしている。私は彼が行動を起こした瞬間、泣いてしまった。悲しくてではない。たぶん、嬉しくて泣いた。そして思わず、「希望だ」とつぶやいてしまった。なんだか恥ずかしいが、ひとりでにつぶやいてしまったのだ。
人は変わることができる。間違っても、やり直すことができる。結論を出し、先へ進むことができる。私は思う。それは希望だ。私たちが変わること、変わることができるということ、それこそが、希望だ。