残るもの

asukakyoko2012-05-04

たまには日本語で書くことを許そうと思います。


ほとんどの、自分の能力に対する評価は、過信か、過大で、それゆえ、たいていの場合、自分から生まれるものというのは、自分にとってはがっかりするものばかりです。
こんなはずじゃなかったのに、とか、もっとできたはずなのに、とか考えて、世に出す前に、消去されてしまうものがたくさんあります。
そして、それは大体において、正しい判断だと思うのです。


私自身、長い間自分には才能が埋もれているとか、誰にも見出されてはいないがすごい能力があるとか考えて、甘い妄想に耽ったりしたものです。(恥ずかしいなぁ)
それで、実際何かを作ってみると、その平凡さ、いや、平凡であること以下の、そもそも世に出せるものではないということに、恥ずかしくなり、悲しくなり、消えたくなったりしてきたのでした。


それでも、私はやっぱり何かを作ろうということを、止めたことはなかったんです。下手の横好き、と言ってしまえばまったくそうで、いや実際、そうやって作ってみたものが、誰かに褒められた記憶というのはほとんどありません。(まったくなかったかもしれない)それでもとり頭なもんで、がっかりした気持ち、なんていうのは寝て目が覚めたらだいたい忘れてしまって、また飽きもせず繰り返すというわけです。


こうなってくると、この執念深さとも、熱意とも呼べない、飽くなき繰り返しは私の才能なんではないかとさえ思えてくる始末でして、それで結局今回もまた、ひとつ長いお話を書いてみたのでした。


印象的な場面、というのは書きやすい。CMと同じで、一瞬でも、人を引き付ければいい。私はこれまで、そういう文章の書き方しかしてきませんでした。でも、面白い話というのは、どうやらそういうものではないらしい。


今回、今までの10倍くらい長いお話を書こうとして、私は何度も行き詰まり、途中で投げ出そうと思いました。場面のイメージはいくらか思いついても、それをつなぐ線が一つも描けない、というのがその理由でした。要素を適切につなぐ線が見えない。世界のどこを辿れば、物語の線が見えるのかわからない。始まりはどこで、終わりがどこなのか、皆目見当がつかない。


たぶん、順番を間違えたのかもしれません。私には、世界を想像することはできても、その世界の動くところを想像することができなかったようです。抽象的な概念の向こう側に生まれる、具体的な生命や、動きや、関係が。物語はむしろ、そういう躍動であり、それを手際よく、まとめて見せることだからです。


それでも、私はどうにか物語を終わらせることにしました。主人公と一緒に、長い旅をしたような気持ちです。文字にすれば、6万字程度のものが、私には、一年の時間の積み重ねでした。こんなものを書くのに、一年もかかったのかと、出来上がった日には相当落ち込みました。でも、それが私にできることで、多くも少なくもない、ちょうど私と同じ大きさのものなのだと思ったら、なんだか不思議と納得できました。私の縮図のようなものだな、と思います。作品が作者を反映するのは、その思想でも、内容でも、文体でも、言語でもなく、おそらく、そのすべての有様が、その作者でなくてはあり得なかったといういみで、だと。


書きあげて見ると、あの苦しかった思いはやっぱりとり頭なので忘れてしまい、また書いてみたいなぁという気持ちだけが残ります。今度は順番を間違えず、まずは線を見出してみようと思います。始まりと終わり、たぶんその辺にたくさん転がっているはずなんです。まずはそれを見つける練習から、今度は始めてみようかと。