食べること

食事に関してはそっけない性格をしている。どこそこのなにが食べたい、ということはあまりない。もしあるとすると、マカロンとはどういう食べ物なのか知りたい、といった理由である場合がほとんどだ。こちらにいると、たとえばドイツのマヨネーズはまずいから日本のマヨネーズじゃなくちゃいやだ、とか、イタリアの生ハムはマジで一生に一度は食べとけ、とか、食にこだわりを持ってるひとがけっこういる。でも、それはたとえば、洋服が体に合わないと文句を言うとか、限定もののスイーツが好きとかとあまり変わらない気もする。趣味がはっきりしているということだし、食に関してもその趣味が反映されているというだけだ。
翻って私は、普段からそっけない性格なのだろうと思う。これでなくては、と思うことはあまりない。思っていても、勘違いであることが多いし、時間が経てば理解不能な思い入れであったりする。ただ、食べることが否応なしに私たちに迫って来る要求である以上、その質を少しでも良く保ちたいという気持ちはある。その場合もやっぱり、私にとって食べることそのものは、体と心をメンテナンスする以上の何かではないし、それはごく最低限のこと、バランスがよく不快な味付けではないということ、さえ満たされていれば十分なのだ。おいしいことはいいことだが、そのために傾注されるべき労力を私は持ち合わせていない。
なんでこんな話をしているのかというと、何かが食べられないという理由で食事に不自由したことがないからだ。食事が合わないという理由で、その土地を嫌いになったことはない。どの土地に行ってもおいしいものはあるし、その土地で食べるからおいしいものもある。いま、ドイツで手に入らないものをわざわざ手に入れようとは思わないし、それは日本にいても同じだ。あるいは、その無理を通そうとする熱量が人類を進化させてきたのかもしれないが、だとすると、私はたぶん惨めなまでに停滞している。
たとえば、食事がまずいという理由でドイツを嫌いな人がいる。グルメだなぁと思う。自分の思い通りのものが手に入らないから、ドイツには住みたくないのだそうだ。なるほど、その人は経済力があり、自分の好むところに住める。その人にとっての分に相応な要求だと思う。もしかすると私も、その人くらいの経済力を持ち合わせていたらドイツが嫌いだったのかもしれない。
一方で、やはりそれはちょっと、ドイツに暮らす人に失礼ではないかなぁという気もする。グローバル化華やかなりし昨今ではあるけれど、その比較が一体どういう基準で行われているものやら、私にはよくわからないのだ。私はドイツの食事も充分おいしいと思うし、満足できる。自分で作る料理もここで手に入る材料を使ったものがほとんどだ。
思うに、何かがなければいけないということなど、ほとんどないのではないか。たいていのことは、自分の手でどうにかできるし、自分の手に入る範囲でどうにかできる。原理的には、衣食住さえ満たされていれば、人間は尊厳のある文化的生活を送ることができる。それなのに、満たされていないとか、さびしいとか、悲しいと思うのは、単純に、人間が獲得した複雑な関係構築の方法が生み出す、バグみたいなものだ。そのバグにも一片の真理はあるかもしれず、その真理がすべてである人がいてもおかしくはないけれど、一方で、それにとらわれ続けるのは不思議だと感じる私もいる。俯瞰にありつづけることは人間であるかぎり不可能だけれど、かといって細部に入りこみこだわりつづけるのも、やはり不可能だ。私たちは不安定な存在だし、不安定だからこそ、その安定のために奔走しているのであって、そもそも安定を揺るがす何かが悪いなどと思うことは、存在しないと思っている神を信じようと必死になっているくらいに愚かな行為だと思う。
だから私は、日々の食事がパンだけであったとしても、きっと何も感じない。