きらきらしたものたち
祖母が娘二人に買い与えたダイヤとパールのアクセサリは、時を経てパールが私の元へ、そしておそらくダイヤは妹の元へいくことになるだろう、と言われていた。それがだいぶはやく現実のものになってしまったのは、私が結婚したからだ。とても気楽に考えていたこの関係の変化が、もしかすると重大なことなのかもしれないと感じ始めたのはいくつものお祝いの言葉と、お祝いの品を手にしてからだったのだから、私の想像力もたかが知れたものである。
誰かを祝うというのは、とても難しいことのように感じていた。なによりお金がずいぶんかかるから、気を遣う。でも実際に祝われてみると、素直に嬉しいものでもある。本当に誰からもなにも貰わないつもりでいたのに、「おめでとう!」と言って差し出されるものを断るのは、心ないことをしているという気にさせられる。それがたとえ、どれほど儀礼的なものであろうとも、私たちの関係の変化を周囲の人々が知り、それを喜ばしく思ってくれるということに、私は驚いたのだった。誰かを祝うというのはちっとも難しくない。お金はやっぱりかかるけれど。
手元に届けられたパールは想像していたよりずっと上品で綺麗だった。(パールというとなにか、ごろごろと太った貴婦人を想像してしまうのだ。)宝石なんて生涯買うこともないだろうと思っていた。なにせ私は上流とは縁遠いような身であるのだし。でもそれを手にして美しいと感じることができるのも、結婚したおかげかと思うと不思議な心持ち。単に年をとっただけなのかもしれないが、いずれにしろ、きらきらしたものに、嫉妬や焦燥、憧れ以外の感情を抱くことになるとは、予想すらしていないことだった。