存在の様態としての<生きる>

存在の仕方には沢山ある。鉱物には鉱物の存在の仕方が、花には花の存在の仕方が、ヒトにはヒトの存在の仕方がある。生物の存在の仕方は、生きること、だと思う。生きるということ、が存在をかたちづくっている。パソコンのマウスの存在の仕方は、生物より難しい。マウスという分け方が、存在の仕方をうまく表さないから。クリックすることかもしれないし、私の目的を果たすことかもしれないし、あれこれの部品をもつことかもしれない。それが面倒なら、マウスの存在の仕方は、マウスであることだ、と言ってしまえばいい。
ともあれ、生物である。生物と、無生物とは、何かが違う。何かが違うと思ったから、人はそれを分けた。何が違うのか。あれこれのものは、生きている。だから、生きていない無生物とは違う。生物の根拠は、生きていることにある。それはつまり、生物の存在は、生きていることに負っている、ということだ。
では、生きているとはどういうことなのだろう。生まれ、死ぬことだろうか。それならば、定期的に建て替えられるお社も生きているのだろうか。あるいは変化することだろうか。しかし、変化で良いのならいくらでもある。日に当たって色あせていく油絵も、変化を被っている。単なる変化だけでは、生きることにならない。
生きることに必要なのは、自力で何かを生むということだ。赤ん坊を生む。絵を描く。建物を造り、文字を連ねる。それまでなかった何かが、そこに生まれる。これはただの変化にはないものだ。
生まれることそのものが、生きることをかたちづくる。生まれることそのものが、終わりをかたちづくる。生むことと、生まれることとが、生きることを存在様態とする、生物をかたちづくっているのかもしれない。