デザインする

個人的にすぐ思いつくのは、ファインアートは自由だが、デザインは不自由であるということだ。その不自由さの中で発揮される創造性こそが、人を驚かせるのだと思う。だがそうなると、もしファインアートが人を驚かせることができるのだとしたら、その枠組みから示さなくてはならないのではあるまいか。いや、そんなことはない。ファインアートというものがあるとして、その驚きとは、まだ誰も到達したことのない地点を見せてくれるということの驚きなのであって、それはすでに枠組みを超えでて、自由に羽ばたくことのできる者にとってだけ、開かれる地平なのだ。*1だとすれば、デザインの創造性は、基本的なあり方という点で、ファインアートと何ら変わるところはない。まだ誰も知らないという、新しさが、デザインの驚きなのだから。*2
そのようにデザインを捉えるのなら、何も「もの」だけがデザインの対象ではないことがはっきりする。「こと」だって、デザインの対象でありうる。狭く制約された世界であっても、常にその枠組みは動き続けている。デザインは新たに枠組みの動いていく方向を見出し、それを提示することである。その意味では、デザインはプロデュースでもある。そうしてまさに、デザインはその世界を作る。創造性は、その行為にこそ宿る。
しかしそのためにはまず、世界を十分に知らなければならない。それはどのような仕方であっても良い。天才が一足飛びにその世界を把握することができるのなら、私は地を這い、まろびとまどいつつ進んでいこう。そうして得たもので、世界をデザインするのだ。その限りでは、知識は創造性の源泉といっていいのだろう。ただし、知識だけではないけれど。

*1:そういえば昔のRPGで、自分が動いたぶんだけ世界の地図ができるというものがあって、時間と共に広がる世界の中で、自分のなし得ることもまた複雑になっていく過程が、とても面白かった。

*2:ただし、その新しさは私たちに向けられている。ファインアートがややもすると私たちにとって不案内になりがちであるのは、そもそもそれが誰かに向けられたものではないからだ。だが、デザインの出発点には、誰かに見せるという方向性がある。