小説家

「ときどき哲学者やめて小説家になろうって真剣に思うことありますよ。だって好き勝手に書けるじゃない。哲学やってるとさ、どうしても正しさみたいなものを求めてしまうんだよね。それ違うよって言われたら、そうですよね…ってしゅんとなっちゃう。」
尊敬すべき先生がこんなことを言うので、つい笑ってしまった。fictiveなのは哲学じゃないのか。でも哲学って、とてもfictiveだと思う。そのfictionがないとやっていけない人たちが、哲学するんだと思う。けれどそれはとても切実なあり方をしているので、fictionと言えるほど突き抜けてない。かといって、それじゃあ生の事実のようなものがあるのかっていうと、それもどうなんだろう。野矢さんは「あるじゃない、生の事実」って言ってたけれど*1、私は「あるじゃない」って言えるほどまだ達観してないんだ。あのとき、晴天の木陰で景色があまりに綺麗で、自分の存在など本当にどうでも良いくらい綺麗であったときの、ただあるがままにあるという、世界へ開きっぱなしの状態でずっといられたら、どれほど幸せだろうと思う。奇跡のようにいまここにいられるというただそれだけのことが、その認識が、私をもう十分に生きたという気分にさせたのだ。生きたという実感は、死んでも良いという満足と同じなので、私は本当に本気で、その時死んでも良いと思った。けれどそこで途切れることができず、私はまだこうしているので、そこにfictionがいるんだと思う。こんなことを言うと、言い訳するために哲学してるみたいに聞こえるな。でもやっぱり、辿り直して、作り直すしかないんだろうとも思う。見失われたのは現実へ至る道ではなくて、現実そのものなんだろうから。


そういうわけで、ラーメンズチケット買えたよ!ひゃっほう!

*1:現代思想2004・7