むぐむぐ

注:インフォーマルで適当なことを書きます。


考えることができるっていうのは、幸せなことだなぁと思う。これほど幸福な瞬間を私は他に知らない。だからこそ、こんなことやってるんだろうとも、思うわけで。さ。結局、思春期そのまま走ってきてしまった中学二年の女子で、やっぱあの頃から何も変わってないということを昨夜嫌というほど思い知らされ、それで別に嫌になったわけじゃなくて、そういうことなんだなと納得したという話。生きることと、考えることと、を不可分なものだとしたときから、こういう道は決まっていたと言ってしまうとロマンチックすぎるんだけど、私はそれを忘れ(たことにしてしまい)やすいので、書いておくのも悪くないんじゃないか。ここに書くことではないという点は置いておいて。


で何が問題だったかというと、それは世界においてきぼりにされる私への恐怖で、「ちっぽけな私」とか「無意味さ」への恐怖で、無意味でしかないような生に意味を見出したいというわがままというか、自意識というか、ナルシズムというか、よくわからないけどとにかく怖い。荒涼とした無機質な世界に放り出されてそのまま消えていくのが怖い。痕跡、が、痕跡だけが私なのだとしても、その痕跡を消えないものにできないか、と思い続けていて、たとえそれが思い込みや誤謬なのだとしても、とにかくどこかに引っかき傷くらい残して消えたい。このあすかという人間が、にんげんが、ひとが、ホモサピエンスが、人物が、人格が、女が、なんらかの偶然によって存在してしまって、それを生きてしまったのだということを、残しておきたい。消えたくない。消えるのが怖い。死ぬのが怖いんじゃない。消えるのが怖い。だって、私以外にこの私のことを、誰が確信できるだろう。違う、そうじゃない。そんな単純なことじゃない。いや、単純なことなのに、単純な言葉にはできない。


世界が残酷だと、それは恐怖の認識だった。世界があるということは、私が世界と分離しうるということで、つまり、私の「なんでもなさ」を認識するということで、それはとんでもなく怖かった。なんでもない私。いくらでもいる私。同じようなことを考えているたくさんいる私。その想像はとても心地よかったけれど、とても怖かった。ちっぽけな、すぐに消えてしまう私、でも、それは、この私で、とにかく、消えなくないと願い続けてきた私、だ。消えたくない、あがきたい。消えたくない、でも簡単に消える。意味なんてない、でも意味があったと思いたい。


すべて妄想だと、すべて誤りだと、すべて思い込みだと思い知らされても、なお、この私というものを認めていたいというわがまま。怖いから。
だから問いはずっと変わらないのだ。私はなぜここにいるのか。私はどうしてここに存在してしまったのか。この生に意味はあるのか。私はそれが知りたい。それを考えるために考えている。問いの矛先は私に向かっていて、その問いかけが私をつくる。問いかけることを止めるならば私は私であることをやめてしまうから、私は考える。考えることが意味を生むのではなく、考えることが意味のある行為だというのでもなく、考え続けていつか消えるときに、「私は一生かけて考え続けた」と私は言いたいのだと思う。何もないとは思いたくない。何かあったと、意味はあったと、少しくらいはいえるんじゃないかと、どこかで信じているのだと思う。それで私は考え続けていて、幸いなことに、それはとても楽しく、幸せだ、ということ。